第10話 柏木美華

 初めて柏木美華を見たときの衝撃はすごかった。


 ベリーショートの髪型に、三枚千円で買えそうな無地の黒いTシャツを着て、同じように安っぽいジーンズを合わせ、コンバースのスニーカーを履いていた。しかも、すっぴんだった。


 柏木美華を見たとたん、「あ〜あ。」と風船がしゅるしゅるとしぼんでいくような感覚を覚えた。がむしゃらに勉強して入った美大で、一番最初の講義に出席したときのことだ。


 私は朝6時半に起きて、高校を卒業した後に染めたばかりの髪を丁寧にカールした。お気に入りのワンピースに、二の腕がスッキリ見える紺色のジャケットを合わせた。今日のために、ファンデーションからリップグロスまで、メイク道具一式を揃え直し、研究を重ねて「ナチュラル」に顔面偏差値を上げるメイクを学んだ。悩みに悩んで、華奢なサンダルを選び、胸を張ってキャンパスを歩いた。


 歩いている途中に、いろいろなサークルから勧誘され、その中にかっこいい男の先輩もいて、胸がときめいた。中高と、彼氏の一人もできなかった私は、大学でたくさん恋愛をするんだとワクワクしていた。


 そこに、柏木美華である。私が一生懸命に息を切らせて走っているすぐそばを、自動車でぶーんと追い抜かれて行った気分だった。


 高校のときからの友達の香織ちゃんを思い起こさせた。どんなに目立たないようにがんばっても、どうしても注目を集めてしまう香織ちゃん。柏木美華も、同じだった。いや、香織ちゃんよりも美人だろう。


 香織ちゃんは小柄で可憐な美少女だけれど、柏木美華は長身のクールビューティーだ。長い脚に形の良いお尻。意外とボリュームのある胸。整っていて華のある目鼻立ち。こんなに美しい人に、私は会ったことがなかった。


 直感的に、私はこの子と友達になりそうだなと思った。「あ〜あ。」とまた思った。憂鬱だ。でも、もう遅い。私はすでに、柏木美華が好きになっていたからだ。


 *


 容姿というものは不思議なもので、醜いのも苦労するが、極端に美しいのもなかなか面倒である。私のように全く十人並みよりも、もうちょっとだけレベルが上の可愛い、くらいが一番おいしいと思う。あるレベルを越えると人が寄り付かなくなる。「一人だけガムがもらえない」という不思議な現象が起こる。


 美華くらいのレベルになると、ガムをもらえないくらいでは済まないだろう。性格の悪い女達からいじめられ、頭の悪い男達からセクハラを受けてきたに違いない。挙動不審な言動や、なんだかずれている服装からみると、きっと天然だろう。まったく、とんでもない原石を見つけてしまった。こりゃぁ、私が世の中の仕組みを教えてやらにゃなるまい。


 私は、中肉中背でファニーフェイスなので、誰からも警戒されない。人との立ち回りがなぜかナチュラルに得意で、実はけっこう人気者である。みんな私といると安心するらしい。それゆえに、男友達は何人もいるが、彼氏いない歴がそのまま私の年齢である。要するに、安全パイすぎるというわけだ。ついでに色気もない。でも、大学デビューを夢見て一生懸命にがんばっている。生殖年齢に達した男女が一つ所に集まり、他にやることもないのだから(あるけど)、私にだってチャンスは巡ってくるはずだ。


「あ〜あ。」と私は今度は声に出してため息を吐く。柏木美華みたいな女の子と友達になるのは得策ではない。物語のヒロインになりたくてがんばっているのに、その引き立て役に成り下がるのは目に見えている。それでも、私は柏木美華に惹かれている。きっと友達になってくれる。私の勘は当たるのだ。


 *


「柏木さんも、ガム食べる?」私がガムを差し出すと、柏木美華はあからさまに衝撃を受けていた。やはり、ずっとガムが貰えない人だったようだ。ショックを受けている様子に気づかないふりで、私はさらにグイッとガムを近付ける。


「ぶどう味。キシリトール入りだから歯にも優しいよ。」私はにひひと笑ってみせる。


 美華はぎこちない動きでガムを受け取り「ありがとう。」と微笑んだ。


 か、わ、い、い。なんて可愛いんだろう。私は心の中で身をよじる。それに、目に凄みがある。きっと口を開けば毒舌に違いない。早く毒を吐いてくれるような関係になりたいな、と変態みたいなことを思う。


「いつの間に柏木さんと仲良くなったんだよ。」とソワソワした様子の男の子が近付いてくる。えーと、誰だったっけ。そうだ、前田くんだ。私のバイト先の先輩の弟だとかで、盛り上がったんだった。


「え? 3秒くらい前。」と私が言うと、前田くんがワハハと笑った。明らかに美華を意識している。


「嘘だよ。柏木さんがあんまり可愛いから、話しかけてただけ。前田くんも普通に話しかけたら?」と私が言うと、前田くんが真っ赤になる。


(おお。意外と純情だったか。失敗した。)と私は思う。


「柏木さん、こっち、前田くん。私は、黒木あきら。」と慌てて助け舟を出す。


「よ、よろしく。」と柏木さんがギクシャクと微笑む。「よろしく。」と前田くんが耳まで真っ赤になって頭をかく。おそらく前田くんは、柏木美華のほうがよほど前田くんよりも緊張していることなど知らないだろう。あんまり焦るのは禁物だ。


「いけない。私、バイトに遅れちゃう。」と私は立ち上がる。前田くんも、「お、俺も。」と便乗する。


「柏木さん、じゃあ、また明日ね。」と私は笑って手を振る。


「うん、また。」と柏木美華も手を振る。


 短く切り揃えられ、何も塗られていない爪。細長い指。手の先まできれいだ。昨日の夜、ていねいにヤスリをかけ、時間をかけて塗った自分のネイルが急に色あせて見える。柏木美華は、周囲の女にこんな思いをさせていることなんて、夢にも知らないに違いない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る