第9話 パンドラの箱 その五



 汁粉をすすりながら、穂村はとうとうと語る。


「過去にあの研究室でおこなった実験のデータをすべて調べなおした。この前も説明したが、アンドロマリウスの細胞から造った卵は全部で五百。そのうち、孵化したのは、わずか一パーセント。五個ほどだ。さらに四個は確実に処分されている。それは間違いない。だが、そのなかで一つだけ、二卵性の卵があったんだ」

「二卵性……つまり、双子ですね?」


 龍郎の問いに、穂村は大きく首肯した。


「天使は通常、一卵性だ。が、きわめてまれに双子が誕生する」

「パラサイターだ!」

「天界じゃ、そう言うらしいな」

「穂村先生。アスモデウスもパラサイターだったんです」


 穂村は感慨深いようすだ。


「うむ。そうらしいね。つまり、アスモデウスの遺伝子だ。なぜかはわからんが、アスモデウスのゲノムは双子になりやすい。なぜかはわからんがね」

「でも、二卵性ってことは遺伝は関係ないんじゃないですか? 一つの黄身に一種類の遺伝子でしょ?」

「人間の染色体ではありえないだろうな。二卵性双生児は母体の排卵のかげんだ。たまたま二つの卵子が排卵され、同時に受胎しただけ。だが、天使の、しかもパラサイターだ。何が起こっても不思議はない。その仕組みはわからないが」


 と言いつつ、穂村はその理由にも見当がついているのではないだろうか。

 少なくとも何かしらの推論は立っているように見受けられた。


「それにしても、双子ですか? 黒川とあの子が? 黒川のほうが十歳は年上に見えましたが」

「さっきも言ったが、パラサイターに常識は通用せんよ。それにだな。あの双子の一方には生まれつき心臓がなかった。天使にとって心臓がないということは、魂を持たないってことだ。特殊なケースだったので私も覚えてるが、生命体として不完全だった。それをアルバートが自身の魔法の力で生かしているのではないだろうか」


 たしかに、キャリーケースのなかに入れられていたときの少女は人形のようだった。今の青蘭のように。


「アルバートは心臓のない妹のために、アスモデウスの心臓である快楽の玉を盗んだ?」

「そうならば、快楽の玉——次代の卵のためではなく、心臓としての機能を欲したのだ」


 快楽の玉は結晶化している。今さら心臓として働くとは思えないが、青蘭の傷を癒す力を思えば、案外、それだけの魔力を有しているかもしれない。


「きっと、あの子、ふだんはずっと仮死状態なんだと思います。キャリーケースに入っているときはそうだった。だから、年齢より幼い。稼働してる期間が短いから」


 龍郎には少女は魂のないぬけがらのように見えた。それでも、アルバートにとっては大切な妹なのだろう。生かすための心臓を求めた。その気持ちはわからなくはない。


「穂村先生。じつは……青蘭の心臓も快楽の玉と同じ働きをするみたいなんです。青蘭はアスモデウスの心臓がなくても、これまでどおり生きていけるんじゃないですか?」


 穂村は考えこむ。何やら口のなかでブツブツとつぶやいていた。


「青蘭の遺伝子はアスモデウスのものだからな。心臓も天使と同一と言えなくはない。だが、おそらく、アスモデウスの心臓ほどの力はないだろう」

「なぜですか?」


 穂村は何か言いかけて、やめた。

 ちょっとあわてたふうで、お汁粉を飲むほす。


「清美くん。もう一杯、頼む」

「ええーっ。青蘭さんのぶんがなくなるじゃないですか」

「青蘭はまだ起きんよ。魂がぬけとるんだからな」


 そうだった。それが一番、急を要することだ。


「黒川側の事情はわかりました。でも、だからってアイツの思いどおりにさせるわけにはいかない。今すぐ、この箱から青蘭の魂を解き放ちたいんです。マルコシアスの力だけでは黒川の結界をやぶれなくて」

「我々の知りあいで異次元を翔べるのは、ガブリエルだけだろう?」

「やっぱり、そうですよね……」


 神父にお願いして、リエルに来てもらうしかない。だが、リエルはアスモデウスを嫌っていた。青蘭を救出するために力を貸してくれるかどうかは、はなはだ疑問だ。


「フレデリックさんはベネフィット教団のことを調べると言って、別行動中なんです。連絡がつくかな」


 電話をかけるが、神父のスマホは電源が落ちていた。その旨を女声アナウンスに告げられる。


「ダメです。つながりません」


 すると、清美が口をはさんだ。

「あれ? もう一人いるじゃないですか。龍郎さんの知りあいで、宇宙から宇宙へ翔べる人」

「えっ? 誰?」

「あっ、人じゃないですね。ルリムさんですよぉ」


 ルリム——

 そう言えば、すっかり忘れていたが、彼女も“翔ぶ”能力を持っていた。

 とは言え、相手は邪神だ。

 今やルリム・シャイコースの女王である。

 第一、そもそもどうやって連絡をつけたらいいのかわからない。


 考えこんでいると、清美はそんなのわけないというふうで告げる。


「大丈夫。呼べば来ます」

「えっ? 呼べば? そんはバカな」

「龍郎さんが呼べば来ます。ただ、条件を出されるので、それがやっかいですね」


 まさかと思ったが、龍郎は小声で呼んでみた。


「ルリム。話があるんだけど、来てくれるかな?」


 当然のことながら返事はない。


「ほら、やっぱり、こんなことじゃ来ないよ。清美さん」

「そんなはずないですよぉ。夢で見たんですから。もっと堂々と大きな声で、『ルリム・シャイコースの女王ルリムよ。わが召喚に応えよ!』って言ってみてください」

「それって悪魔召喚なんじゃ……」

「いいから言ってみてください!」

「は、はい……」


 しょうがないので、清美に脅迫される形で、龍郎は叫んだ。


「ルリム・シャイコースの女王ルリムよ。わが召喚に応えよ!」


 ふうっと大きくため息が聞こえてくる。清美だろうか?

 やっぱりダメだったじゃないですかと言おうとしたとき、龍郎は気づいた。

 座椅子の向かいに女が座っている。

 浅黒い肌に銀色の髪。

 背中には黒い翼を持っている。

 ルリムだ。

 ほんとにルリム・シャイコースの女王がやってきた。

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