第7話 潜入 その七



 暗い廊下を走る。

 つきあたりに細く光のラインが見えていた。ドア下のすきまから、室内の照明がもれているのだ。


(血の匂い……)


 アンドロマリウスの匂い。

 そして、あの天使のような匂い。

 それらにまざり、強い血の匂いが充満している。


(青蘭……)


 胸のざわめきが、にわかに強まる。

 ギュッと内臓をわしづかみにされたような不安感。


 光のもとにつくと、神父がカードを出してセンサーにあてる。とたんにドアがひらいた。前もって誰かからカードキーを盗んでいたようだ。


「青蘭——!」


 光のなかは手術室だった。

 手術台の一方に青蘭が、もう一方にあの天使のような少女がよこたわっている。が、青蘭はぐったりと目をとじ、失神している。白い患者用の手術着のようなものを着せられているのだが、その腹部が血に染まっていた。


 かたわらには医者が立ち、今まさにステンレス製の医療バットに何かを置いた。それは波状に光を放つ真紅の玉だ。脈打つように輝く。


 快楽の玉だ。

 見るのは初めてだが、ひとめでわかった。

 強烈な天使の匂いと、妖しく歌うような波動。


「やめろッ!」


 龍郎は叫んでかけよった。

 彼らは青蘭の体内なかから快楽の玉を外科的手段でとりだした。

 それをどうするつもりか知らないが、渡すわけにはいかない。

 青蘭にとって、それは命と同じほど重要なもの。青蘭が生きていくために必要なすべての力を有している。

 青蘭のもう一つの心臓だ。


 室内には医者のほか数人の男女がいた。だが、医者も看護師も呆然としてすくんでいる。彼らだけなら、かんたんに快楽の玉を奪いかえすことができた。

 龍郎は猛獣の勢いで医師にむかって突進する。入口から快楽の玉までの距離はほんの数メートル。手を伸ばせば、すぐに届く。


 指先がもうすぐ快楽の玉にふれる。

 その瞬間、よこから誰かがそれをつかんだ。

 白っぽい髪の男。鱗のあるその顔を見て、誰かに似ていると思った。


名月なつき! 行くぞ」


 男が叫ぶと手術台の上で死人のようによこたわっていた少女が起きあがった。男のあとを追って廊下へかけだしていく。


「待て! それを返せ!」


 龍郎も男を追った。


 青蘭は快楽の玉の力で重度の火傷の傷跡を治している。玉の力を失えば、また全身傷だらけになり、歩くことも話すこともままならなくなる。なんとしても、とりかえさなければ。


 男は少女の手をひいて、一心不乱にどこかへ走っていく。階段をあがっていった。

 階段には多少の蛇がいたが、かまってられない。龍郎もあとについていく。


 数メートルの差がなかなか縮まらない。男はビルの間取りを熟知している。暗闇でも移動するのに困らないようだ。対して、龍郎は男の行くさきを視認しながら追うことしかできない。その差がしだいに両者のあいだのひらきになっていく。


 男が階段のてっぺんで立ちどまった。そこにドアがあるのだ。ポケットから鍵を出し、センサーにあてる。


 龍郎は必死で男にとびついた。が、鼻先でかわされ、男はドアの外へ出る。屋上だ。バラバラと大きな音がすると思えば、ヘリコプターが止まっていた。


「待て!」


 叫ぶものの、無情に男はヘリに乗る。男が少女をひきあげると同時にヘリコプターは上昇し始めた。


「やめろッ! それは青蘭のものだ!」


 かけよる龍郎を男が見おろしている。

 そのおもてを真正面から見て、ようやく龍郎は気づいた。男が黒川だということに。そして、彼の造作がアンドロマリウスに酷似していることに。


(こいつが……青蘭の兄か!)


 彼の目的は青蘭の財産ではなかったのだ。真に欲していたのは、快楽の玉。財産は青蘭を誘いだすための呼び水にすぎなかった。


「くそッ! 返せェー!」


 どんなにわめきちらしても、ヘリコプターは遠ざかるばかり。

 やがて、都会の薄明るい夜空へと消えた。



 *


 手術室に帰ると、フレデリック神父が医者をおどして、切開された青蘭の腹部を縫合させていた。手に拳銃を持っている。そんなものまで所持しているとは思わなかった。


「青蘭は……?」

「麻酔で眠らされている。命には別状ない」と、神父が答える。


 だが、神父は知らないのだ。

 快楽の玉を失えば、青蘭がどうなるのかを。


「青蘭……」


 眠る青蘭は、まだ美しい。

 体内にいくらか快楽の玉の力が残っているのだろう。

 猶予はどれくらいだろうか?

 その力が切れる前に、とりかえさなければ。


 青蘭の頰にふれるが、いつもの鼓動は感じられない。苦痛の玉と快楽の玉の共鳴が断たれてしまった。


 そのとき、青蘭が麻酔から覚めた。

 けだるげに目をあける。

 龍郎に気づいて微笑みを浮かべた。が、じきにそのおもてがひきつる。感じたのだろう。自分のなかから失われたものがあることに。


「青蘭……」


 青蘭は叫び声をあげ、半狂乱になって起きあがろうとする。手術台に固定するベルトをひきちぎりそうな勢いだ。

 まだ腹部の縫合中だ。龍郎と神父が二人がかりで押さえた。


「青蘭。大丈夫だ。必ず、とりもどす。約束する。おれの命にかえても、必ずだ」


 そう。必ずだ。どんなことをしても。

 黒川をゆるさない。


 龍郎は硬く心に誓った。




 了

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