第7話 潜入 その二
香りが強くなる。
もう間近だ。
そう思ったとき、廊下のさきに人影がよぎった。
すらりと背の高い白い影。
やはり、そうだ。
昨夜の少女である。
なぜ、こんなところを歩いているのだろうか?
悪魔の魔力を吸った少女。
アスモデウスに瓜二つの容貌の……。
(この子が光矢製薬とつながってるってことか? てっきりナイアルラトホテップの仕業だと思ったんだけど)
不思議に思いながらも、龍郎は少女のあとをつけていった。相手はまっすぐ前を見て、夢遊病者のようにフラフラと歩いている。どんなに近づいても気づかれる心配はなさそうだが、用心して距離をとりながらついていった。
少女はいくつかの角をまがったあと、すっと廊下の奥へ消えた。
龍郎はあわてて走っていく。
角からのぞいても少女の姿はない。しかし、つきあたりにドアが一つあった。ほかに通路や扉はないから、少女はそこに入っていったのだろう。
あの少女がアスモデウスになんらかの関連があるのは相違ない。
もしかして青蘭の兄だろうかとも思ったが、あれはどう見ても女の子だ。それに年齢も青蘭より下に見える。
とにかく素性を問いつめようと考え、龍郎はつきあたりのドアの前に立った。ノックもせずにドアノブに手をかける。まわすと、カチリと音がした。ひらく。鍵はかかっていない。
窓から自然光がさしこむ室内。
書棚がならんでいる。会社の資料室か書類の保管室のようだ。
少女の姿は見えない。
奥のほうにドアがある。
そこから出ていったのかもしれない。
思いきって、龍郎は書庫のなかへ入った。そのとたんだ。背後でドアが閉まり、鍵をかけるような音がした。
(しまった!)
あわててドアにとびつくが、そのときにはもうしっかり施錠されている。
「おい、誰だ? あけてくれ。ここをあけろ!」
怒鳴ってもドアの外に人のいる気配はなかった。鍵だけかけて、すぐに立ち去ったようだ。
(なんで、おれをここに……わざとか?)
奥のドアから出られるかもしれない。それに、あの少女の行きさきもつきとめたい。急いで奥へまわる。だが、そっちは最初から鍵が閉まっていた。
どうやら、龍郎はここへおびきよせられ、監禁されたようだ。
(おれを閉じこめるのが目的じゃないはずだ。これまで、おれが悪魔に狙われたことはないしな)
苦痛の玉は悪魔に苦しみを与えるので、嫌われることはあっても好かれることはない。ということは、狙われているのは、青蘭だ。龍郎を青蘭から長時間ひきはなしておくための時間かせぎではないかと思案した。
(くそッ。おれたちが来たこと、とっくにバレてたんだな。だから、あんなにスイスイ事が運んだのか)
後悔するものの今さら遅い。
しばらくドアをガチャガチャしたり、外に出られそうな場所を探した。
窓から外を見るものの、地上十数メートルだ。ベランダや非常階段も見あたらない。ここからは逃げられない。
ドアの鍵は残念ながら生体認証および身分証の読みとりのようだ。ドアのよこに読みとり機がついている。
ドアじたいも頑丈な鉄製だ。人間の力で簡単に破壊できる代物ではなかった。
気持ちばかり焦った。
こうしているうちにも、青蘭に危険が迫っているかもしれない。
(そうだ! 青蘭に電話しよう)
とりあえず危険を知らせることはできる。
龍郎はあわててスマホをポケットからとりだし、青蘭を呼びだす。コールが続いた。しかし、それはいきなり不自然に切れた。再度かけなおすと、今度は電波が通じないか電源が切れていると女のアナウンスが告げる。
ますます怪しい。
もしや、すでに青蘭の身に何かが起こっているのでは……?
もうプライドがなんとか言ってる場合じゃない。龍郎はフレデリック神父に電話をかけた。神父にはすぐにつながった。
「すみません。光矢製薬の社内で閉じこめられてます。青蘭に電話かけてもつながらなくて、何かあったのかもしれない」
「わかった。すぐにそっちに向かう」
通話が切れる間際に神父が舌打ちをつくのが聞こえた。
責められてもしかたない。
のこのこと敵地に飛びこんできた上、悪魔のターゲットにされやすいことを承知で、青蘭を一人にしたのだから。
そのあと、どのくらい時間が経過しただろうか。
龍郎は何度も青蘭に連絡してみるが、あれ以来ずっとスマートフォンの電源が切れているようだ。まったくつながらない。
十分か十五分も経ったころ、とつぜん、外からドアノブがまわった。静かにこっちに向かってひらく。そのスキマから、神父の整ったおもてがのぞいた。
「早く。青蘭のところへ」
言われなくても、そのつもりだ。
龍郎は大急ぎで覚えのある廊下を逆走した。が、イヤな予感が絶えない。
たぶん、離れていたのは、ものの三十分かそこらだ。それなのに、廊下にただよう青蘭の香りが薄れているような……。
いくつかの角をまがり、応接室の前に出た。
「青蘭——!」
とびこんだが、室内には誰もいない。
青蘭ばかりか、茅野もだ。
ソファーの上に青蘭が持っていたハンドバッグが落ちていた。なかにスマホも入っている。電源が切られていた。
かたわらに固定電話があった。
そこから受付の電話にかけ、つれがいなくなったことを告げる。だが、来社したときはあれほど歓待してくれたのに、今は妙にそっけない。別室に移動されたのではないですか、茅野に連絡してみますと言ったきり、折り返しの電話もかかってこなかった。
ふたたび、神父が舌打ちをつく。
「やつらは初めから青蘭をさらうつもりだったんだ。追求しても、うまいことを言ってごまかされるだけだ。私は一人で社内を探す。君は社の連中に食いさがってみろ。あとでまた連絡する」
そう言い残し、神父は応接室をすべりだした。
龍郎は青蘭のバッグを持って受付へ行った。ちょくせつ交渉したが、なかなか相手にしてもらえない。
二十分以上もゴタゴタしたあと、ようやく茅野がやってきて、事務的に告げた。
「八重咲さまなら、すでにお帰りになられましたよ」
それを聞いて、龍郎はこの会社のすべての人がグルだと悟った。なぜなら、青蘭が本名を名乗るはずがないからだ。偽名を使う打ちあわせをしていた。
(ここでねばってもムダなんだろうな)
青蘭はさらわれてしまったのだ。
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