第5話 天空の悪魔 その二



 何かがいる。

 異様な気配がしている。

 だが、それを言ったら、東京ではどこもかしこも匂いのしないところはない。


 デートをあきらめる気はなかったので、とりあえずチケットを買ってエレベーターに乗った。

 高さ三百五十メートルにある展望デッキに直行する。綾子の住むタワーマンションのエレベーターも速かったが、こっちはもっと速い。鉄骨が見えるのでケージのなかを移動しているようで、ちょっと目がまわる。


 平日だが、龍郎たちのほかにも大勢いた。みんな、観光客だろう。外国人の姿も見受ける。

 ドアがひらくと、前にいた人たちから降りていった。


「あっ、やっぱり高いね。空が見える」

 そう言って、青蘭ははしゃいでいる。


「そうだね。うちの地方でこの高さの景色を見るなら山に登るしかないな」

「龍郎さん。早く。早く」


 青蘭にひっぱられて、ガラスの外壁まで駆けていった。

 エレベーターでは人が密集していたが、展望デッキのなかでバラけると、それほど混雑していない。二人の世界にひたって、景色を存分に楽しめる。


「ほら、遠くに山、見えるよ?」

「富士山かな」

「富士山は行ったことない」

「じゃあ、いつか行こうよ」


 ガラスのむこうには背の高いビル、低いビルが積み木のようにビッシリとつらなっていた。どこを見てもグレーの景色。灰色の森。広大な砂漠のようにも見える。

 正直、龍郎の琴線にはふれないのだが、青蘭は感動しているようだ。


「空、飛べそうだね」と、うるんだ瞳で龍郎を見つめてくる。

 なんだか泣きそうに澄んだ微笑だった。


「飛びたいの?」

「うん。飛びたい」


 青蘭の瞳に思慕がゆれる。

 空をなつかしんでいる。

 やはり、天使なのだ。

 今現在、その翼は失われているが。

 痛いほど、実感する。

 また宇宙そらけたいのだと。


 思わず、龍郎は青蘭を抱きしめた。

 そのままガラスをつきやぶって飛びおりてしまいそうに思えた。

 もちろん、人間の力で割れるようなガラスではないし、青蘭がそんな自殺行為をするわけもないのだが。

 遠くへ行ってしまいそうな、そんな気が……。


「龍郎さん?」

「青蘭——」


 どこにも行くなと言いそうになった。

 なぜだろうか。

 青蘭が想っているのは、ほんとは苦痛の玉の持ちぬしだった天使だからか?

 最初は疑念にすぎなかったが、今では確信している。青蘭はただ、苦痛の玉を龍郎が宿しているから、その鼓動思い出を愛しているにすぎない。もしも、この玉を別の人が持っていたら、青蘭はその人を愛していただろう。きっと……。


「龍郎……さん? どうしたの? いつもは人前で抱きつくなって言うくせに」

「青蘭。好きだよ」

「うん……」


 青蘭はためらいがちに、龍郎の背に自身の腕をまわしてきた。ほんとにそうしていいのか、あやぶむような仕草で。


 刻一刻と日がかげる。

 西日があちこちのビルの壁や窓に反射して、金粉をまいたようにキラキラ輝く。その光がしだいに薄れ、深紅のベールが灰色の積み木を包みこむ。

 濃い夜の空気。

 終幕で血を吐いて倒れる悲劇のヒロインのような、あでやかさと、儚さと、悲哀をふりまきながら、昼の残滓ざんしは去っていった。


 ずいぶん長いあいだ、抱きあっていたのだと思う。気づくと、すっかり夜になっていた。


「青蘭。見てごらんよ」

「何?」


 昼間は白っぽいかすんだ空のもと、灰一色だった街が、とつぜん華やかな宝石箱と化していた。

 遠い山並みのシルエットまで、いちめん、無数の星の海。白や黄。ときおり青。赤。

 そのさまは巨大な鳥。

 宇宙へと還るように、翼をひろげている。


「夜景はキレイだね」

「うん」


 きっとこの景色は忘れない。

 今、かたわらに青蘭がいるから。

 二人の記憶となって刻まれる。


「レストランに行こう。ちょうどいい時間だ」

「そうだね。お腹へった」


 エスカレーターに乗り、階下へ降りる。前もって調べたレストランは三百四十五メートル。


 だが、エスカレーターが降下し、フロア345についたとたん、腐臭のように強烈な匂いが漂った。

 まちがいなく、いる。

 悪魔だ。


 龍郎が強く手をにぎりしめると、青蘭もにぎりかえしくる。そっと目を見かわし、フロアを歩く。

 ショップが前方に見えるその手前に、そいつはいた。

 見ためは完全に死神だ。真っ白な鉄骨を編んだ人型の造形で、手に大きな鎌を持っている。身長は三メートルくらい。何かを探すように、どんよりとした挙動で廊下をウロついている。


 夜の七時をとっくにすぎていたが、スカイツリーは九時までひらかれている。あちこちに人影があった。しかし、誰もあの怪物に気づいているふしがない。

 悪魔の姿は一般人には見えないのだ。


「どうする? 龍郎さん」

「それは退治したほうがいいだろうね。人間に危害をくわえない悪魔はめったにいないしね」

「タダ働きですね」


 龍郎は急にふきだしたくなった。

 青蘭がサラリーのことを口にする日が来るとは思わなかった。

 一瞬、微笑みあったそのとき。

 悪魔がふりかえった。

 龍郎たちを見て、激しく憎悪を燃やす。黒い炎を両眼からふきだし、いきなり襲いかかってきた。

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