第1話 絶望するパンドラ その五



 そのとき、ガラリとふすまがひらいた。


「はいはーい。お待たせしましたぁ。穂村先生お持たせのお寿司ですよぉ。ちょっと足りないかなぁと思って、野菜サラダ作ってきました!」


 元気よく清美がとびこんできた。大きな盆に寿司とサラダを載せている。

 清美の手料理と聞いて、一瞬、龍郎はギョッとした。が、サラダなら問題はないだろう。いくら、砂糖と塩をふつうにまちがえる清美でも、サラダは基本、ドレッシングで味つけだ。市販の商品ならまちがえる要素がない。


 清美につきしたがって、カエルの妖怪と狼の化け物が盆を運んで、ぞろぞろ入ってくる。

「ささ、晩食にいたそうぞ。にぎり寿司なるものを召そうではないか」と、カエルの妖怪が言った。

 これではもう一般の人は家に呼べない。


「ああ……ありがとう。清美さん。食べながら話しますか。穂村先生」

「うん。まあ、そうだな」


 十二畳の和室。

 家族の居間なので、座卓が置かれている。その上に次々と寿司が載った。

 寿司は美味い。M市は漁港が近いので、回転寿司のネタも新鮮だ。

 しかし、大切な話の続きが聞きたくて、食べているあいだ、ジリジリした気持ちになる。


「び……美味! 美味じゃのう。清美殿」

「よかったねぇ。ガマちゃん。お寿司好きなんだぁ」

「赤い粒々をくだされ」

「はいはい。イクラねぇ。マルちゃんも食べてね」


 ガマ仙人、水かきのある手で器用に食べている。マルコシアスは犬食いだ。鳥獣戯画の世界である。

 にぎやかな外野をよそに、龍郎は早々にハシを置いた。


「穂村先生。さっきの続きですが」


 話しかけると、穂村はものすごい勢いで三つ四つ寿司を口中にほうりこみ、日本酒で流しこんだ。やせの大食いというやつか。かなりの痩身そうしんなのに、意外とよく食う。


「清美くん。酒のつまみに枝豆かなんかないのかね?」

「あっ、デザートのプリンはありますよ?」

「プリンはつまみにならんよ」

「……サキイカの袋があります」

「それでいい」


 まさか、魔王とサキイカを肴に酒を酌みかわす日が来るとは。


「先生。早く教えてください」

「ああ。すまん。すまん。卵だろ? アンドロマリウスの細胞を使った卵だ」

「診療所の地下室に卵でビッシリ埋まった隠し部屋がありました。卵の中身は腐っていましたが」


 穂村は清美が持ってきたサキイカをかじりながら、やや不明瞭に語る。


「さっきも言ったように、青蘭は人工授精だ。母体から出てきた」

「じゃあ、あの地下にあった大量の卵はなんですか? 一つが三十センチはありました。現在、世界最大のダチョウの卵より大きいんですが」

「もちろん、天使の卵だよ——あっ、こらこら、カエルが酒を飲むんじゃない」


 横目でスキをうかがって、穂村の酒を盗もうとするガマ仙人を押しやりながら、穂村は続ける。


「最初は通常の天使のように卵生にしようとしたんだ。だが、多くはかえることもなかった。天使の卵が孵るためには、その内に魂を宿さないとダメなのだな。魂を持たない卵は、ただ腐るのみだ」


 天使はつがいの相手とたがいの心臓を一つにすることで卵を作る。心臓をとりだすということは、その瞬間に親は死ぬのだろう。だからこそ、卵に命が宿るのだ。


「アスモデウスの魂は青蘭だ。その当時はカレンさんだった。卵に宿るべき魂がすでに現世で存在していたから、全部、腐ったということですか」


「そう。それで私は考えた。魂の持ちぬしの体内に入れてしまえば、孵るんじゃないかと。その方法は成功した。前述のように、カレンの魂は現状の肉体と青蘭の肉体を交互に出入りする形で、じょじょにシフトチェンジしていった」


「でも、それじゃ、青蘭に兄弟なんて存在しないですよね?」

「いや、厳密に言えば、一つ残らず腐ったわけじゃない。きわめてまれにだが、孵った卵もある」

「え?」

「そうだな。当時、五百個あまりの卵を造った。そのうちのほんの一パーセント未満だ」


 五百個の一パーセントなら、それでも五個の卵は孵化ふかしたことになる。

 そう言えば、これもアンドロマリウスが言っていた。孵化したものは失敗作だった、と。


「孵った卵からは天使が生まれたんですか?」

「天使の定義にもよるな。大地の神々をもとにノーデンスの造った奉仕種族が天使だ。つまり、天使とは悪魔と同一のものとも考えられる」

「それは以前にも先生がおっしゃってました」

「そう。大地の神ととらえれば、失敗作というよりは新種かもしれん。しかし、天使の姿形ではなかった。だから、アンドロマリウスは失敗作とみなしたんだ」


 アンドロマリウスはアスモデウスを復活させるために、天使を科学的に造りだそうとしていた。アスモデウスにふさわしい外見でなければ気に入らなかったのだろう。


「その使たちは、どうなったんですか?」


 穂村は一瞬間、龍郎を見つめた。

 だが、ためらうことなく宣告する。

 瞳は澄んだ叡智えいちをたたえていた。


「処分したとも。むろん」


 理知をつきつめれば合理主義に走る。科学者の目だ。


「全員、ですか?」

「そのはずだがね。しかし、青蘭に兄がいるというのなら、あるいは私の助手の誰かが、ひそかにつれだしたのかもしれない。それ以外での可能性はないだろうな」


 やはり、あのときの卵のなかに、殺処分をまぬがれた個体がいるようだ。

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