第34話 ダイブ(2)

 でも、ほんとにいいの?

 最後にもう一回だけ自問してみる。


 ——出てきた答えは変わらなかった。


 あたしは後ろ手にフェンスを掴んだまま身を乗り出して、下の歩道に人がいないことを確認する。そして、そのままゆっくりと手を離して、重力に任せるがままに雑居ビルの屋上を後にした。


 このまま加速して、一瞬で……と思いきや、唐突に時間の流れがスローモーションになった。ああ、これって事故の体験談とかでよく聞くやつだね。どうせなら走馬灯で楽しい思い出を見たかったな……ま、どっちでもいっか。今さら何を見ても楽しめそうにないし。


 実際にはかなりのスピードで落ちているはずなのに、不思議の国のアリスみたいにゆっくりふわふわ降りているように感じる。どうやら、すぐには死なせてくれないらしい。


 何の気なしに横を見たら、夕焼けをバックに飛んでいるカラスと目が合った。


「あたしも、羽があれば飛べたのにね」

 口の中で、そんなことを呟いてみる。


「飛べても、前に進む気がなきゃ落ちるだけさ」

 カラスが無言のアイコンタクトでそう返してきた——ような気がした。


「前には進めなくなっちゃったんだよ。羽があれば飛び越えられるでしょ?」

「飛び越えても、それで解決するとは限らないぞ」

 そう返された——と思ったときには、とっくにカラスは視界から消えていた。


 うん、だよね。


 やっぱ、こうするしかなかったよね。他にどうしようもなかったよね。女子としての尊厳をズタズタにされ、身体をボロボロにされ、挙げ句の果てに犯罪者になってしまったこの状況は、どうやっても解決するとは思えない。


 トドメになったのは、クラス全員にあたしの恥ずかしい部位の写真が晒されたこと——ではなく、クラスの誰一人として『丸峰がこんなことするはずがない』とも『大丈夫?』とも言ってくれなかったことだった。


 仲が良いと思ってただけで、お互いのこと何も知らなかったんだ。

 築けてると思ってただけで、信頼関係なんて築けてなかったんだ。

 存在すると思ってただけで、居場所なんて最初からなかったんだ。


 クラスなんて、所詮は仮初めの集団——。学校が戻りたい場所ではなくなり、友達がまた会いたい存在ではなくなった瞬間、自分の中で何かをかろうじて繋ぎとめていた糸がぷつりと切れてしまったのだった。


 でもさ、どこか違う世界に飛んでいけたらさ、確かに何も解決しないかもしれないけど、少しは前を向けたかもしれないのにね。そんなことを考えながら下に視線を戻すと、いつの間にか地面が数メートル先に迫っていた。


 もうすぐだ——って、やばいやばい! 真下に人がいる!


 危なーい! 避けてー!


 叫ぼうとしたけど、声が出てこない。思わずぎゅっと目をつぶった瞬間、激突音とともに意識がシャットダウンした。


 ◆◇◆◇◆


 ん? これは……ベッド? 少なくともアスファルトではない。枕元からは、何かの機械が発する電子的な音が聞こえてくる。恐る恐る目を開けてみようとしたものの、顔に何かが巻かれていて開けられなかった。この感触は包帯かな?


 これはあれか、「一命をとりとめた」ってやつか。うーん、助かっても嬉しくないんだけどね。命を助けられても、あたしが助かったことにはならないし。だってさ、それであたしの状況が変わるわけじゃないじゃん。


 どこの誰が助けてくれたのか知らないけどさ、あたしが置かれた状況まで解決してくれるわけじゃないよね? 居場所のない地獄に引き戻しておいて、後はほっとく気? そんなの、ただの偽善だよ。無責任だよ。


 死にたい人には、死なざるを得ないだけの理由があるんだよ。


 その理由を一緒に背負う覚悟もないくせに、「死にかけてる人を助けた」みたいにヒーローぶってんじゃねーよ。……って、偉そうに言える立場でもないんだけどね。あたしも、自分がこういう状況に置かれて初めて理解できたことだし。


 まあ、何にせよ、あの時ぶつかりそうになった人は無事でいてほしいな。あたしが巻き込んじゃったあの人のことも助けてくれたのなら、そこは素直に感謝したい。


 そもそも、ぶつからなかった可能性もあるわけだけど……あの人、結局どうなったんだろ? 一瞬見えた感じだと、女の人っぽかったけど……ま、今ここで気にしてもしょうがないか。誰か来たら聞いてみよう。




 ——と、思ったんだけど、結局誰にも聞けなかった。別に、人が誰も来なかったってわけじゃないよ。看護師さんらしき人がしょっちゅう様子を見にきてくれたし、お父さんとお母さんもかなりの頻度で来てくれたし、なんとお兄ちゃんまで来やがった(なんたる辱め!)


 それはともかく、そんな感じで人の出入りはそれなりにあったんだけど、あたしは誰とも話ができなかったんだ。


 なぜなら、あたしには意識がなかったから。


 不思議だよね。意味わかんないよね。自分の感覚ではあれだけ意識がはっきりしてたのに、外から見たら意識不明の植物人間だったんだから。そりゃ確かに、指一本ぴくりとも動かせなかったけどさ、普通に考えたら怪我のせいだって思うじゃん?


 やっと誰か来たと思ったら、いきなり無言でオムツを交換してくるもんだからほんとびっくりしたよ。何してるのか聞こうとしても声が出ないから、初めて自分がそういう状態だって理解できたんだ。理解できたらできたで、純粋に恥ずかしかったけどね。


 でもまあ、こっちから聞きたいことは聞けなかったけど、周囲の会話は聞こえたから、いろんな情報を得ることができたよ。例えば……


 自分が全身に骨折と打撲と外傷を負って集中治療室にいるってこと。

 脳にも深刻なダメージを負っていて、回復する見込みがないってこと。

 あの件では、なぜか自分が一方的に悪いってことになってるらしいこと。


 意識がないと思われてるから、直接話しかけられることは基本的になかったけど、母親だけは割と頻繁に話しかけてきた。っていうか、泣きついてきた。


 自分で飛び降りといて勝手な話だけど、親に目の前で泣かれるのは正直、かなり辛かったよ。あの三人にされたことの方がまだましだと思えるぐらいにね。特に「なんで飛び降りる前に相談してくれなかったのか」って言われたときは心をえぐられる思いがしたよ。


 あたしも自分で思ってたほど周囲を信頼できてなかったのかな、ってかなり真剣に思い悩んだね。ただ、飛び降りる前に相談してたとしても状況が好転したとは思えないんだよね。結局、ああなってしまった時点で何もかもが手遅れだったと思うから。


 とにもかくにも、そんな日々がしばらく続いたんだけど、意識を保てる時間は目に見えてどんどん減っていった。まあ、元々あるはずのない意識だもんね。


 そろそろ死ぬのかな? 次に目を覚ますのは天国かな? 地獄かな? たまに目を覚ましたときはそんなことばかり考えてたんだけど……




「ある日目を覚ましたら、千年後の月にいたってわけ」


 こうして、あたしは長い昔話を終えた。

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