第2章 過去

第8話 ダイブ

 でも、ほんとにいいの?

 最後にもう一回だけ自問してみる。


 ——出てきた答えは変わらなかった。


 あたしは後ろ手にフェンスを掴んだまま身を乗り出して、下の歩道に人がいないことを確認する。そして、そのままゆっくりと手を離して、重力に任せるがままに雑居ビルの屋上を後にした。


 このまま加速して、一瞬で……と思いきや、唐突に時間の流れがスローモーションになった。ああ、これって事故の体験談とかでよく聞くやつだね。どうせなら走馬灯で楽しい思い出を見たかったな……ま、どっちでもいっか。今さら何を見ても楽しめそうにないし。


 実際にはかなりのスピードで落ちているはずなのに、不思議の国のアリスみたいにゆっくりふわふわ降りているように感じる。どうやら、すぐには死なせてくれないらしい。


 何の気なしに横を見たら、夕焼けをバックに飛んでいるカラスと目が合った。


「あたしも、羽があれば飛べたのにね」

 口の中で、そんなことを呟いてみる。


「飛べても、前に進む気がなきゃ落ちるだけさ」

 カラスが無言のアイコンタクトでそう返してきた——ような気がした。


「前には進めなくなっちゃったんだよ。羽があれば飛び越えられるでしょ?」

「飛び越えても、それで解決するとは限らないぞ」

 そう返された——と思ったときには、とっくにカラスは視界から消えていた。


 うん、だよね。


 やっぱ、こうするしかなかったよね。他にどうしようもなかったよね。そんなことを考えながら下に視線を戻すと、いつの間にか地面が数メートル先に迫っていた。


 もうすぐだ——って、やばいやばい! 真下に人がいる!


 危なーい! 避けてー!


 叫ぼうとしたけど、声が出てこない。思わずぎゅっと目をつぶった瞬間、激突音とともに意識がシャットダウンした。


 ◆◇◆◇◆


 痛ったぁー……くない? ん? これは……ベッド? 少なくともアスファルトではない。そして枕元からは、何かの機械が発する電子的な音が聞こえてくる。恐る恐る目を開けてみると、真っ白な天井が目に飛び込んできた。


 これはあれか、「一命をとりとめた」ってやつか。うーん、助かっても嬉しくないんだけどね。命を助けられても、あたしが助かったことにはならないし。だってさ……あれ? なんであたし、飛び降りなんてしたんだっけ?


 体を動かすのは怖いので論理的に頭をひねってみたものの、自殺しようとした理由が全く思い出せない。さっきまで覚えてたはずなのに、夢の記憶みたいにすーっと消えてしまった感じだ。


 んー、ごく普通の一日だった気がするんだけどなぁ……。何があったんだっけ? まあ、何にせよ、あの時ぶつかりそうになった人は無事でいてほしいな。


 そして、あたしはこれからどうすればいいんだろ? 自殺に追い込まれた原因って、結局解決してないわけだよね? それを忘れたまま普通に生活なんてできないよね? でも、思い出したらまた自殺したくなっちゃうかもしれないよね?


 っていうか、そもそもあたしは普通に生活できる状態なの? まさか、全身不随とかじゃないよね?


 ——恐る恐る、顔を横に向けてみる。

 動いた。痛みもない。窓のない真っ白な壁が目に入ってきた。


 ——顔を戻して、手を上に持ち上げてみる。

 動いた。指も問題なく動く。それに、入院といえば定番の点滴もされてない。あれ、もしかしてこれ、怪我はもう治ってるんじゃない? 結構長いこと寝てたのかな?


 ——思い切って、ベッドの上に起き上がってみる。

 起き上がれた。しかも、ずっと寝てたとは思えないぐらい身軽に。


 お胸も健在、脚も無事…………って、なんで全裸なの!? どんな病院だよ!


 ……ん? なんか最近、同じようなことがあったような……。なにこれ? デジャブ? それに、このやけにツルツルなシーツもどっかで見たような……。うーん、どこで見たんだっけ? 夢?


 ちょうどそのとき、どこかで聞いたような抑揚のないバリトンボイスが耳に飛び込んできた。


「丸峰さん、お目覚めですか?」

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