子猫のマフィンと、構いたがりの女の子
無月弟(無月蒼)
前編
ゴロンと寝返りをうった拍子に目が覚めて、ぼんやりとした頭のまま、辺りを見回して。「ニャー」って鳴いた。
ここは、家のリビングにあるソファーの上。そうだった。誰もいない静かな部屋で、今日はひとりでお留守番してたんだっけ。
全身の毛をブルブルって震わせて、もう一度「ニャー」って鳴いた後、四本の足をぎゅーって伸ばして、尻尾をピンと立てた。
ボクの名前はマフィン。焦げ茶色のふんわりした毛並みの猫さ。
今はこの、五条さん家に住んでいるけど、決して飼われている訳じゃない。ボクは高貴な猫なんだから、断じて飼われているわけじゃないよ。
まあ、ここでの生活は割りと快適だから、嫌いじゃないけどね。おやつに出されるチャウチュールは、外では絶対に食べられない、極上の味だし。
さて、そんなわけで、ボクはこの家を根城にしているわけだけど、家の人達は今、お仕事や学校に行ってていない。
ひとりぼっちで、寂しくないかって? とんでもない、ゆっくりできるのは良いことさ。
今日はエアコンを入れていなくても、暑くもないし寒くもない、心地よい空気。
ソファーの上で丸まって、のんびりお昼寝タイム。このまったりした時間が、ボクの至福の一時だよ。
「たっだいまー!」
……至福の一時だったのに。
ああ、いつの間にかもう、あの子が帰ってくる時間かあ。もうちょっと寝ていたかったんだけど、さよならボクのお昼寝タイム。
さて、さっきここでの生活は快適だって言ったけど、例外がある。
ボクは必要以上に、干渉されるのがキライなんだ。人間同士だって、適度な距離感ってあるでしょ。近すぎず、離れすぎず、距離感を見極めるのが、上手くやっていくコツなのさ。なのにあの子ときたら……。
「マフィン、たっだいまー!」
リビングのドアを、力強くバンって開けたって思ったら、小学生の女の子が飛び込んでくる。
この子の名前はアミ。この家の一人娘で、元気が取り柄の女の子なんだけど……。
アミはボクの姿を捕らえると、一気に駆け寄ってきた。
「ふふふー、今日もいい子にお留守番できてたみたいだねー。ひとりで寂しくなかったー?」
別に。快適に過ごせてたよ。それじゃあ、ボクはこれで……。
「あー、待って待って。そんなプイってそっぽ向かないでー!」
行こうとしたのに、両手でがっしり体を掴まれてしまった。こら、くっつくなー!
「ふふふ、今日も可愛いー! ふかふかー、ふわふわー、癒されるー!」
ええい、放せ。それにボクは可愛いんじゃなくて、格好良いんだ。可愛いなんて、男の子を誉める言葉じゃないって、分かんないかなあ。
「何して遊びたい? 何でも付き合っちゃうよ。それとも、おやつ食べたいかな?チャウチュールあるよチャウチュール……あっ!」
掴む力が弱まった隙をついて、スポンと手から抜け出した。まったく、ひどい目にあったよ。
と、思ったのもつかの間。懲りもせずに再び手を伸ばしてくるアミ。
けど、二度も捕まるもんか。それっ!
「あうっ」
伸びてきた手めがけてネコパンチを繰り出すと、さすがに怯んだ様子で慌てて引っ込める。
どうだ見たか……って、何そんな傷ついたみたいな顔してるのさ。そんな顔したって無駄だよ、君のせいで迷惑してることに、変わりはないんだから。
ああ、もう。なのに何で、こんなに胸が痛くなるのさ。アミ、傷ついてないかなあ……。
「……デレ」
え、何だって?
「えへへー、やんちゃしてくるなんて。マフィンはツンデレだねー。もう、構ってほしいなら、素直に甘えてくればいいのにー」
ダメだ。まるで通じていない。
もう構ってられないよ。こういう時は、逃げるが勝ちだ。
「ああ、待ってマフィン。どこ行くのー?」
引き留めようとするアミを無視して、ボクは駆け出して行く。
向かうのは、アミの手が届かない場所。床からテーブルへ、テーブルからテレビの上へと、ピョンピョンとジャンプして、最終的にたどり着いたのは。
「スゴいっ! エアコンの上に乗っかっちゃった!」
どうだ、高いエアコンの上なら、追ってこれまい。
アミとの追いかけっこは、日常茶飯事。こんな不毛な戦いにほとほと疲れはてていたボクは安全地帯に身を置くため、留守番の最中にここまで登れるよう、特訓を重ねていたんだ。
ようやく手にした安息の地。さあ、お昼寝を再開しよう。
「マフィンー、マフィンー!」
下ではアミがボクのことを呼んでいるけど、気にしない気にしない。返事をしなかったら、さすがにそのうち飽きるだろう……。って、ちょっと待って!
「……もうちょい。もう少しで届くかな?」
思わず目を疑った。アミってば椅子を持ってきて、さらにその上に分厚い百科事典を置いて高さを増して。それらを踏み台にしながら、ボクに向かって手を伸ばしてきている。
どうしてそこまでして構おうとするの!? というか、そんな不安定な足場じゃ危ないって、分かんないかなあ? バカなの!?
「マフィン、そんな所にいたら危ないよ。早く下に降りよう」
それはこっちのセリフだよ! ああ、言ってる間に、椅子がぐらつき始めた。
ダメ、早く降りて。そんな所で無理な体勢をとったりしたら……。
「キャっ!」
恐れていたことが起きてしまった。つるんと足が滑って、踏み台にしていた百科事典が、椅子から落ちる。
当然、そこに足を乗せていたアミも無事じゃすまなくて、そのまま床にビターンと、尻餅をついちゃった。
大急ぎでボクも床に降りて、お尻を擦っているアミを見上げる。
だ、大丈夫?
「あ痛たた。失敗しちゃった。あ、でもマフィン、心配して降りてきてくれたんだね。あははー、やっぱり優しいねー」
良かった、案外平気そうだ。もう、心配して損しちゃったよ。
って違う。別に心配なんてしてないよ。ただ、もしこれで怪我でもしていたら、後味が悪いだけなんだから。
「マフィン、もうあんな所に登っちゃダメだからね。落ちたら危ないんだから」
その言葉、そっくりそのまま返すよ。
それにしても、こんなに無愛想にしてるのに、この子はよくこんなにめげないなあ。きっと、鋼のメンタルの持ち主なんだろう。
その強さを、もう少し別の所に活かしてくれたらいいものを……って、コラ。だから頭を撫でるなって。
もう、アミなんて嫌いだー!
◆◇◆◇
結局、アミとの攻防戦は夜まで続いて、もうヘトヘト。
お父さんやお母さんが帰ってきて、今は夕飯の準備の真っ最中。アミもお手伝い中で、ようやく安息の時間が訪れていた。
まったくアミにも困ったものだ。まあ、いつも困らされているんだけどね。
そしてここに来て、もう一つ困ったことが起きた。
「ほらマフィン、ご飯だよー。大好きな猫缶だよー」
アミが差し出してきたのは、ペースト状になったお肉が入った猫缶。
とても美味しそう。美味しそうなんだけど、でもアミから貰うのかあ。何だか貸しができちゃうと、これからあしらいにくくなるからなあ。どうしたものか。
「どうしたの? 食べないの? 美味しい美味しい猫缶だよー。ほらほらー」
ええい、今どうするか考えてるところなの。だいたい美味しいって、君は食べたことがないじゃないか。
ああ、もう。食べたいのに、亜美からもらうのはシャクだし、どうしよう。
「アミ、マフィンにちゃんと、ご飯あげられた?」
「あ、お母さん。それが、食べてくれないの」
いつまでももたもたしてるのを見かねたのか、アミのお母さんがやって来た。
お母さんはチラッとボクを見ると、アミの手から猫缶を取って、手招きしてくる。
「私があげたら、食べてくれるかな? マフィン、おいで。ご飯よ」
「ダメだよお母さん。マフィン、きっとお腹が空いてないんだよ。無理にあげたら、可愛そうだよ」
アミはそう言ったけど、それは違う。君にさんざん追いかけ回されたから、もうお腹ペコペコだよ。
よし、お母さんがくれるのなら、断る理由がない。ありがたく頂くことにしよう。パクパクパク。
「あら、食べた食べた」
「ええー、なんでー? アタシがあげた時は食べなかったのにー! マフィンの意地悪ー!」
もう、うるさいなあ。ご飯くらいゆっくり食べさせてよ。
そしたらギャーギャー叫ぶアミの頭を、お母さんがそっと撫でた。
「ええとね。もしかしたらだけどマフィン、追いかけ回されるのが嫌なんじゃないかなあ。あんまりベッタリしすぎると、嫌われちゃうよ」
お、さすがお母さん、わかってるねえ。だけどアミは理解していないのか、キョトンとした顔をしてる。そして。
「あはは、何言ってるの。そんなことあるはずないよ。だってアタシは、マフィンのこと大好きなんだよ。だからマフィンだって、アタシのことを好きなはずだよ」
…………おいこら、それはストーカーの理屈じゃないか。
なるほど、そんな風に思っているから、ボクが何度逃げても、ネコパンチをくらわせても、笑って追いかけてくるってわけか。怖っ!
もうこんな子の近くになんて、いられないよ。猫缶も食べ終わったことだし、撤収撤収。
「ああ、マフィンいかないで。今ニボシ持ってくるから、それも食べて……」
「こーら、あんまり食べさせ過ぎたら、太っちゃうでしょ。あげすぎはダーメ。そんなことしたら、ますます嫌われちゃうよ」
「うう、そうだよね。あげすぎはよくないよね。で、でも別にアタシは、嫌われてないもん。マフィンはツンデレなだけだもん」
勝手に言っててよ。とにかく、ボクはもう寝るからね。
きっと明日はまた、不毛な追いかけっこが待っているんだ。戦いに備えて、しっかり休んでおかなくちゃ。
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