観測者には容易い
横田裕
序章 事の始まり
僕を僕たらしめているのは記憶だ。
記録された記憶によって人は心を構築し、感情を生み、コミュニティを成長させて、存在を認識する。人が一人では生きて行けない所以さ。
幽霊の存在を誰かが認知できたとしても、それを認識として共有できなければ、それは幻視や幻覚に過ぎない訳だ。
そう、人間の脳はよく間違いを起こす。幽霊の話をすると出くわすって言うのは良い例えだ。記憶に新しい恐怖や、居るんじゃないか?という先入観が、あらゆる物を人だと誤認しては修正し、すぐに正しい物へと認識を改める。結果、幽霊は透けるし消えるし一人にしか見えない。所詮は柳か枯れ尾花だ。
故に、認識は他人と共有して初めて意味を持つ。だから、僕が僕である事を認識する為に、僕は…。
「結婚するって!?」
俺の住んでいる場所から数駅離れた街にある小さな居酒屋。そこはカウンター席が十席ほどとテーブル席が四つほど置いてあり、タバコの脂に薄汚れた壁に囲まれていた。
そんな居酒屋でカウンター席に座り、時々暇を持て余した視線をメニューへやりながらビールを飲んでいたのだが、もうすぐ冬を迎えようという季節にしては身軽なフリースにジーパンを組み合わせた格好で、俺の左隣に座る高校時代からの悪友であり親友の杉村純也(すぎむら、じゅんや)が持論に絡めていきなり、「一緒になろうと思っている人が居る」と、切り出したのだ。
「学よ、声を張るな。視線が痛い」
学とは俺の名だ。フルネームは品里学(しなさと、まなぶ)で、よく田舎くさいと言われる。どこがだ?と、よく思う。
首を稼動域の中でそれなりに動かし辺りを見まわすと、確かに視線を正面に戻す人たちがちらほらといるのが見えた。ただ、声を張るなというが、近況報告がてらに結婚すると言い出すほうもどうかしてるだろう。とりあえず少し前まで視線をくれていた人たちに習って自分も首を戻しつつ、理不尽には目を瞑り、「確かにな」と、返してやった。
つい二、三時間前のことだ。休日の夕方、唐突に掛かってきた電話で、「暇か?」と訊かれたので、「暇だ」と答えたら、場所と時間を告げて電話を切られた。用件を聞こうと掛けなおしても出る気配がなかったので、しょうがないか。と、言われたとうりの居酒屋に軽く準備をして向かう事にしたのだ。
そして言われた時間を少し過ぎた午後八時十分頃、居酒屋へ入ると純也が頼んでいたであろうビールとつまみが、純也の座る入り口近くのカウンター席にちょうど並ぶところだった。それらが全て並ぶのを待ってから、純也の右隣の席に腰を下ろした。座るときに、「やっぱり十分遅れたな」と言われ、癪だったので無言でビールを飲んでいたら持論だ結婚だ、と、近況報告に混ぜ、畳み掛けてきたわけだった。
まぁ、昔からそういう奴だからな、今に始まった事じゃない。と、諦めて、ビールを飲みつまみを味わいながら話に付き合うことにする。
「で、いつから付き合ってたんだ?」
手始めにそこから訊いていく事にした。
「八年くらい前からだな」
「んー…って、高校時代からじゃねーか!?」
話に付き合うと決めたことをいきなり後悔する羽目になった。ちびちび飲んでいたビールを危うく噴出しそうになり、それを何とか喉へ流せたのは幸いだったと思う。店を汚さずに済んだ事はもちろん、気管に入らなくて本当によかった。あれは痛い。
ただ、先程要らぬ注目を集めてしまったことを考慮して、出来る限りボリュームを抑え言葉に反応したつもりだったが、純也から軽くど突かれたので再度のボリューム調整が必要なようだった。
それにしても、と思う。俺と純也は二十四歳で同い年だ。誕生日も近く、あと半年もしたらお互いに二十五になる。そんな親友に八年くらい前、つまり十六歳か十七歳の時から彼女が居たとは驚きだった。
お互い高校ではそれなりに勉強しつつ、それなりに遊んでもいた。学校の行事も一緒に率先してとまではいかないにしろ人並みには参加し、大いに楽しんでいたつもりだ。
でも、男子校だったせいかそんな浮いた話は一度足りともしたことがなかったはずだ。
「するほどの仲でもないだろうが」
確かに今まで浮ついた話をした試しが無いのでその通りなのだが、…って、人の心を読むんじゃない。そう思わず突っ込んだ。もちろん心の中で、だ。
その突っ込みが読まれたかどうか定かでは無いが、話を進めるべく一つ浮かんだ考えを言葉にした。
「でも、八年も付き合うとはな。さては、相手が年下だな?」
八年も付き合う理由は幾つかある。環境、経済的な理由、そして結婚できる年齢に制限があることだ。俺はその中で、もっとも可能性の高いものを消去法で選んだ。相手が結婚できる歳まで待った。そういうことだろうと考えたのだ。
だが、正解は違った。純也は首を横に振ると言った。
「両親が自由を与えているから除外した。大手の企業でそれなりの稼ぎがあるから除外した。そして残った年齢の制限から歳が離れていると考えた。だからその場合、僕ならば年下の女性を選ぶだろう。と、そう結論を出したわけだ。残念だが違う。彼女は年上だ」
その言葉に俺は「まじかよ」と驚き、並行して頭の中でイメージする。純也の隣に次々と十歳区切りの容姿で女性を並べてみたのだ。ちょっとした想像だったが、八十歳の腰の丸まったおばあちゃんが意外とお似合いで笑えた。
「想像で笑うなよ。彼女に怒られるぞ」
と、ビールジョッキを傾けて喉に流し込む合間に、そう注意された。
「それで怒られるのかよ」
「怒られるぞ。この前も家に帰ったら彼女がソファーで寝てて、それをただ見てたら怒られた。夕飯が遅くなったら身体に悪いからって、でもそれがまた可愛かったんだ」
それは健康のためにも怒られておいた方がいいだろう。などと口には出さずに頷いて、俺もビールを喉へ流し込んだ。
「でもまぁ、良い彼女だな」
そう言いつつ、今度はつまみに手を伸ばす。そして、ふと思った。
「と、言うか、写真を見せろ!想像しなくてすむ」
純也は俺の言葉に反応して、一旦はフリースのポケットに左の手を入れた。折りたたまれた携帯電話を出そうとしたのだろう。ただ、途中で止めて、
「それはできない相談だ。誰にも見せられない」
そう言ったのが少し気になった。なので質問をする。
「止められてるのか?」
「いや、別に止められてない」
「じゃあ、隠し撮りか?」
「違うな」
「まさか、あられもない姿か?」
「それはあるかもな」
「あるのかよ」
「冗談だ」
開いた口が塞がらないとは、なるほどこの事か、と思う。初めて経験した。だが、今はその感動を一旦置いて、考えることにする。
それにしても、「あられもない姿は冗談だ」。と、言われた。隠し撮りでもなく、止められてすらいない。ならどんな理由で見せられないんだろうか?と、そんな疑問が頭の中で芽を出したのだ。もちろん、しらみつぶしに訊いていってもいいだろう。直接答えを求めることもありだと思う。普通なら。でも、これは違う。考えるべき問題だった。
そう思ったのは少し酔ってるってのもあるが、それだけが理由じゃない。
高校に入って、杉村純也という人間に出会って、色々と杉村純也という人間の才能って物を隣で見てきて、思うところがあった。
頭の出来が違う。それは見えてる世界が違うのと同じだということも。
それは既に大学受験で身にしみた。それで一度は納得した。
でも、だ。純也は言うのだ。
勉強ができるのと、頭が良いのは違うことだ。特に、この日本という国では、な。
誰でも断片を拾い集めることは出来る。だから、それを注意深く気にすることを諦めてしまわなければ、名探偵ぐらいこの世界に住む誰にだってなれる。そういうことだ、と。
そしてお互い大学生になり、通う学校が別々になったのを境に、純也は時々曖昧だったり、わざと物事を歯抜けで話すようになった。
始めの頃は大学での勉強のこともあってか、考える事を面倒に感じていた。もちろん歯抜けの部分を訊けばちゃんと答えてくれるので、これといって会話に支障はなかったと思う。要は会話が少し複雑化しただけだからだ。
だが、そんな会話を繰り返すうちに、いつからか断片を集めて歯抜け部分にはめていくことに魅了された。
で、今まさに、その断片を純也はばら撒いた。つまりこう言いたいのだろう。どんな写真か当ててみろ、と。なら、考えるべきだ。
時間があるときなら考えることを放棄はしない。それが今の俺の考え方だった。
「少し時間をくれ」
そう言うと純也は楽しそうに、
「いいだろう」
と、返してくれた。
純也の了解も得られたようなのでじっくりと考えさせてもらうこととする。
さて、なぜ見せられないのか?
たとえば純也が酷い格好で一緒に映っているからか?
いや、違うな。誰にも見せられないというなら俺にも見せられないと言う事になる。現に俺は見せてもらってない。だとすると純也個人が写りこんでいる事が問題じゃない。
それなりに模範的な生徒をやっていた俺たちは、学校行事にも体調が悪いとかで無い限りちゃんと参加していたし、時には怒られるくらいに楽しんでもいた。つまり修学旅行にも参加している。だから裸の付き合いくらいはあるし、文化祭で仮装喫茶をやることになったときは、先生の一人が家から持ってきたふわっふわのワンピースを着て意気揚々と女装するような奴だ。いまさら俺にも見せられない姿なんて無いだろう。
ならばプライベートな写真だろうか?
たとえばキス写真とか。それなら見せられない理由も頷ける。一旦は携帯を出そうとして止めるのも分かる気がする。ただ、そんな写真は彼女に止められるだろうな。
となると、普通の写真になるが、それだと見せられない理由が分からなくなる。
やはり普通ではない写真なんだろう。じゃあ、と思ったがこれでは同道巡りだ。一回整理して見るか。
まず携帯で撮られた写真だ。それは誰にも見せられなくて、隠し撮りでもなく、あられもない姿でもない。それから彼女に止められていない写真でもある。そうなると純也が見せたくない写真になるが…ん?ちょっと待てよ。
「なあ純也、撮る許可は貰ってたのか?」
「あぁ、うん、撮影の許可も貰ってた」
そうか、と思った。そしてもう一つだけ訊いておく事にした。
「なら、誰にも見せられない。あれは、誰にも。で、いいのか?」
その問いにフッと笑った純也は察したのだろう。すぐに答えてくれる。
「そうだ。あの写真は誰にも見せられない。わかったか?」
返答を聞いた瞬間に、今までバラバラだった断片が形を成したのだ。
ふと見た純也のジョッキのビールは既に底をついている。その隣に置いてあるつまみも、二皿目に手をつけていた。気づかない内に随分と時間が経っていたらしい。
「あぁ、わかったよ。寝顔だな、しかも涎の跡がついた」
「正解だ。では説明を聞こうか」
いつも通りにそう言った純也は、面白いお話を心待ちにする子供のようだった。
「そうだな、まずは誰にも見せられない。ここからにしよう。この誰にもってのは、彼女も含めた誰にも、って事だろう?そうじゃなきゃ他人には見せられないと言うはずだからな。もちろん言い方が悪かった可能性もある。だから確認したんだ。
でもそうなると、止められていない。と、いう事が矛盾を持つようになる。彼女にも見せられないなら、彼女が止める事は出来ないからな。
ただし、口頭で許可を貰ったのなら別だ。それも写真を撮る前にな。
お前は言ったはずだ。撮影の許可も、貰っている、と。つまり撮影の許可以外にも彼女に訊いたんだろう?例えば俺、品里学には見せてもいいか?とか、な。
まぁだが、それだと今度は、何故、事前に許可を取る必要があるのか?そんな疑問が浮上することになる。隠し撮りではないなら堂々と撮影した。だとしたら、彼女にも見せられないような写真は撮れない筈なんだ。
つまり、彼女はその写真を撮ってもいいと言って、尚且つ見せることへも承諾したのに、彼女自身は撮られた事を知らない。更には隠し撮りでもないなら、寝顔しかないだろう。
そして、彼女にも見せられなくなったんだ。涎の跡が付いていたから。という理由でな」
「そのとおりだ」
俺が説明し終えるのと同時に純也は軽く手を叩いて、そう言った。
その言葉も拍手もありがたく頂戴するとして、一つ分からない事があったので、それについては疑問として言葉にした。
「ただ、あれだ。そんな写真しかないってのもおかしな話だけどな」
あぁ、と言って純也はあっさり答えてくれた。
「それはこの前、データを別のストレージに移したからで、今もその写真だけ残ってるのは、忙しすぎて痛んだ心に癒しを与えるためだ」
「さいですか」
少しぬるくなったジョッキの底に残っていたビールを一気に流し込むと、あと一皿だけになったつまみをせっせと口に入れる。すると、競争でもするつもりなのか、純也も一緒になってつまみを頬張って食べ始めた。
そして、いよいよつまみも無くなると、思考が淀むほどにアルコールがまわっていて、これ以上飲むと明日に響くし、経験上胃の中のものを吐く恐れがあるので、勘定を済ませて店を出ることにした。
暖かかった店内と違って屋外は夜風がそこそこに強く吹いており、これから本格的に冬を迎える十一月も後半だけあって、純也と同じようなフリースにウィンドブレーカーだけだと大都市東京とは言え少し寒い。厚手のコートを着てくるべきだったと後悔した。
そんな中、「送るよ」と、まるで彼氏のような台詞を吐いて純也は俺と共に駅まで着いてくるようだった。普段はそんなことを言わないのが純也という奴なので、これは何かあるなと思う。
「悪かったな随分と待ってもらって」
道すがら俺は簡単な推理まがいのものに時間を使ったことを一応謝っておいた。
だが、返ってきたのは抑えることを忘れた笑い声で、通行人の視線が一斉に向けられたのを感じた。
「純也よ、声を張るな、視線が痛い」
そして俺が居酒屋での純也の言葉を借りると、彼はいっそう笑うのだった。
ひとしきり笑ったからか、駅に着いたからなのかはわからないしどっちでもいいが、笑い過ぎたからか腹をさすってる純也が駅の時計を指して言う。
「考えることに集中しすぎだ。それと観察力というか注意力が足りんな」
時計は思っていたよりも進んでいなかった。
何の事か分からずに回りそうにない頭を動かそうとしていると、写真の事とは違い、純也は自分から答えを言った。
「半分とは言えビールの一気飲みはやっぱ危ないな」
そこまで言われて俺はようやく気がつく。
「時間の感覚を狂わせたな?」
それを聞いた純也は嬉しそうにこう返してきた。
「正解…だが、まぁ大げさだな。ただビールを飲み干し、つまみを食い尽くしただけだ」
やっぱり敵わないなと確信し、今度は俺が笑う番だった。視線は痛いが知ったこっちゃない。しばらく笑いあってお互い笑いつくした後、俺が改札を抜ける前に純也はもう一つと言って問題を出した。
「彼女が誰かわかったか?」
そう言った純也は正解が返ってくる事を分かっているようで、実に楽しそうだった。
その事については頭が回るうちに答えに行き着いているのですらすら言える。
「写真のことを考えてるときにわかったよ」
「怪しいな…」
と、すぐに疑いの目を向けられたが、動じることはなかった。
「まぁ聴け。今の歳は三十四か五で、俺らの高校の教師。担任ではなかったが、俺らのクラスにはよく顔を出してた先生だ。名前は忘れたがあだ名は確か、のりまゆだったか?」
「よし、名前の分で殴らせろ」
咄嗟に半歩下がってガードをしてから言い訳のような弁明をする。
「仕方がないだろ?皆あだ名で呼んでて、しかも情報の授業自体は少なかったんだからな」
元々本気ではなかったんだろう。純也はあっさり拳を引っ込めると、やれやれといった感じで教えてくれた。
「能島繭子(のじま、まゆこ)先生だ。今は別の学校で生物だったかを教えてるし、クラス担任にもなってる。殴られたくなかったら今度から人の名前はちゃんと覚えとく事だな」
あぁそんな名前だったなと思う。俺たちが通っていた高校には女性が三人だけいた。しかも男子校だからか話題に上がることが無かったわけではない。ただ担任でもない印象の薄い授業の先生の名前を、普通はしっかりと覚えてはいないものだ。ましてあだ名で呼ばれているところしか見たことがない。しょうがないだろう。しょうがないが、大人の、言ってしまえば実に面倒くさいマナーというやつだ。
「わかったよ、覚えとく」
そう返しつつ、もうすぐ電車が来るようなので改札を通った。
「まぁ今度紹介するから、その時はまた予定を空けてくれ」
高校時代の先生を紹介も何も無いと思うのだが、細かいことを気にしても仕方ないかと、身体ごと振り返るのは面倒なので上半身だけ軽くひねり返事と別れの挨拶をする。
「はいはい、楽しみにしておくよ。じゃあな」
「おう」
そう返事をした杉村純也という人間に、突拍子の無い変化なんてなかったはずだ。
俺はホームに上がり電車に乗って揺られ、最寄の駅で降りるとまた改札を抜けて、それから街灯の明かりを渡り歩くようにして帰宅した。
いつものように風呂に入るのは止めてシャワーだけ浴びると、水をしっかり飲んでからベッドに倒れ込み眠りについた。
それまでにも気づいてはいないだけで、事態は進行していたのかもしれない。
二週間後、純也がありとあらゆる痕跡諸共、この世から消えたことを理解する事になる。俺の記憶にだけ存在を残したまま、跡形も無く消え去ったのだ。
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