第10章 不合格

第46話

 二月になった。試験の日は程近い。しかし、月夜は普段から試験を意識しているわけではない。学校で起こる特別なイベントといえば、それくらいしかないから、学校に行くと自然と思い浮かぶだけだった。


 囀がいなくなっても、彼女の日常は変わらなかった。朝早くに目を覚まして、軽く勉強をし、電車に乗って学校に行って、そこで授業を受ける。終わったら夜まで教室に残り、それから帰宅。そして、風呂に入り、時間があれば少しフィルと話して、彼と一緒に眠る。


 基本形が定められたスケジュールだから、特別なことが起こらない限り、そうそう乱れは生じない。そう考えてみれば、囀と出会ったことで、彼女の生活は乱れていた、ともいえるかもしれなかった。ただし、スケジュールに則っていなければならない理由などないし、自分で決めたことだから、いつでも自分で変えられる。囀がいなくなったから、自然と、もとの生活に戻るようになっただけでしかない。


 そして、夜。


 教室の中で、月夜は一人本を読んでいた。


 当然、教室の扉は開かない。


 誰もいないからだ。


 静寂がこの空間を支配している。


 本のページを捲る音と、鼓動、そして呼吸が、微かに存在しているだけ。


 しかし、それらは、月夜自身が生じさせている音だから、彼女にとっては無音に等しい。


 最近、席替えをして、彼女の席は窓に最も近い列になった。前から三つ目の位置だ。どこに座っても、授業の内容が変わるわけではない。周囲の人との位置関係は変わるが、それが原因となって、人間関係が変わるところまでは発展しない。そんなことは稀だろう。席替えをするとなると、クラスメートの多くが盛り上がるが、何がそんなに楽しいのか、月夜には全然分からなかった。


 ふと顔を上げて、天井を見る。


 小さな穴がいくつも空いたパネルが、ずっと続いている。


 窓の外に目を向ける。


 そのとき、月夜は、それに気づいた。


 彼女が、その瞬間にそちらを見たのは、偶然だ。


 けれど、人は、そんな偶然を、運命と呼ぶ。


 少なくとも、囀ならそう呼ぶだろう。


 校庭の中を、ゆらゆらと定まらない光が、校舎に向かって近づいてくる。


 懐中電灯の明かりに間違いなかった。


 いつか見た光景を思い出して、月夜は立ち上がり、窓の傍に近づく。


 彼の姿が見えた。


 月夜は自分の席に戻り、本を片づけてリュックを背負う。


 そのまま教室を出た。


 夜の学校は、一般的に想像されるよりは、不気味ではない。不気味というよりも、ロマンチックだ。外の僅かな光を受けて、廊下がぼんやりと照らし出されている。先は見えないが、近づけば見えるようになる。不謹慎だが、停電になると、多少なりともテンションが上がる。このロマンチックさは、そんな状況に似ている。いつもと違う景色を目の当たりにして、血圧が少し上がってしまうのだ。


 廊下を進み、階段を下りる。


 目的地は決まっていた。


 そこしかありえない。


 職員玄関に至り、廊下を進んだところで、図書室に到着する。


 鍵が開いていた。


 月夜は上履きからスリッパに履き替え、もう一枚の扉を抜ける。


 周囲を見渡す。


 サーチライトのような光が、天井を揺れながら照らしていた。


 躊躇わずに、月夜はそちらに近づいていく。


 中央のテーブル群を横切り、書棚の間を通る。


 その先に、誰かが座っている。


 彼は、月夜に気づき、懐中電灯をこちらに向けた。


「やあ、月夜」囀は、本を開いたまま彼女に挨拶した。「来ると思っていたよ」


 月夜は足を進め、囀の傍まで来る。本を読んでいる彼を見下ろし、そのまま固まった。


「どうしたの?」


 再び懐中電灯を彼女に向けて、囀は尋ねる。


「どうやって、ここの鍵を開けたの?」


「ああ、それね」彼は話した。「友達に頼んで、開けておいてもらったんだ」


「友達?」


「うん、そう。まあ、君ほどは親しくないけど」


 月夜は黙って考える。しかし、その説明では、齟齬が生じた。


「それは、ありえない」彼女は説明する。「生徒が全員下校したあと、管理人が、すべての鍵がかかっているか、もう一度確認する」


「うん、そう」彼は頷いた。「でも、僕と、その管理人が、友達だったとしたら?」


 月夜は何も言えなくなる。


 その可能性は、考えていなかった。


 いや……。


 考えていたかもしれないが、候補から無意識の内に除外していた。


 月夜は囀の隣に座り込む。


 彼の手に触れた。


「どうしたの? 何かあった?」本に顔を向けたまま、囀は彼女に質問する。


「会いたかった」


「へえ、それは、どうも」

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