第44話



 夜になった。


 月夜はすでに教室に移動して、眠っていた。夜の教室で眠るのは初めてだった。今まで何度もこの時間帯まで教室に残ったが、眠ろうと思ったことはなかった。


 疲れているわけでもないのに、なんとなく、眠りたいと思って、机の上に両腕を載せて、その中に顔を埋めた。すると、たちまち意識がぼんやりとして、いつの間にか眠ってしまった。


 目を覚ます。


 顔を上げると、目の前に巨大な黒板があった。


 時計は午後十一時を示している。


 教室前方の扉が開いて、囀が入ってきた。


「やあ」囀は言った。「もしかして、寝ていたの?」


「どうして分かるの?」月夜は尋ねる。


「額が、赤くなっているから」


 月夜は自分の額に触れる。たしかに、少し熱を帯びていた。感覚もいつもと違う。


 囀は窓の傍に近づいて、それを勢い良く開いた。


 冷たい外気が流れ込んでくる。


「今日は月が綺麗だよ」囀は言った。「あ、今の、告白のつもりなんだけど、分かる?」


 立ち上がって、月夜は囀の傍に行く。空を見上げると、左側が欠けた半月が浮かんでいた。


「源氏物語は、もう読んだ?」


 外を向いたまま、月夜は囀に質問する。


「ああ、あれね、まだ、読んでいない」囀は答える。「やっぱり、読むなら最初から読まないと、感動が薄れる気がしてさ」


「最終巻だけ読むのも、良いと思うよ」


「でも、それだと、物足りない」


「そう?」


「うん……。クライマックスだけ体験しても、そこに至るまでの過程がないと、駄目だね」


 囀は上着のポケットからルービックキューブを取り出した。


 彼はそれを軽く投げ上げる。


「これ、知っている?」


「ルービックキューブ?」


「うん、そうそう。面白いよね、たまには」


「たまに、面白いの?」


「いや、たまにやると、面白いんだ」


「やってみて」


「僕が?」囀は得意気な顔をする。「よし、いいだろう」


 縦横に三分割された正方形の板を、囀は手際よく回転させる。しかし、手際が良いだけで、全然色は揃わなかった。どうやら、初心者らしい。色が揃わなくて、やり方も分からないのに面白く感じるのは、どういうことだろう、と月夜は不思議に思う。単純に、機構が面白いという意味かもしれない。これを作った人は、いったい何から発想を得たのだろうか。


 囀からそれを受け取り、月夜も少し挑戦してみる。開始から五分程度で、彼女は青い色を一面に揃えることができた。


「へえ、凄いじゃん」囀は感想を述べる。


 完全にまぐれなので、月夜は凄いとは思わなかった。


 青を維持したままほかの色を揃えることはできないので、一度崩して、すべての色を揃える道程を考える。しかし、これはどうやら無理そうだった。論理的に一つずつ考えていけば、必ず揃えることができるはずだが、順序の候補が多すぎて、すべてを試す気にはなれなかった。やり方が明らかでも、それをやりたいと思わなければ、達成はできない。


「それが、どうかしたの?」


 一通り遊び終えてから、月夜は囀に質問した。


「これ?」囀はルービックキューブを投げる。「いや、どうもしないけど……」


「たしかに、面白かった」


「でしょう?」


「細胞分裂みたいで、面白い」


「細胞分裂?」


 囀は、今度はハーモニカを取り出して、それを吹き始める。


 しかし、こちらも初心者のようで、メロディーになっていなかった。


 途中から明らかな不協和音になったので、月夜は囀にやめるように諭した。


「え、何でよ」囀は不満そうな顔をする。


「ちょっと、耳に悪い、と思ったから」


「練習なんだから、できなくて当然でしょう?」囀は笑った。「それとも、月夜、できるの?」


 ハーモニカを受け取って、月夜はそれを軽く吹いてみる。しかし、できるわけがなかった。


「できない」月夜は報告する。


「そうそう。だから、練習するんだよ」


「そうだけど……。……うん、分かった。じゃあ、どうぞ」


「嘘。煩いんだよね。やめます」


 それ以上、囀のポケットからは何も出てこなかった。

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