モノクロームの特異点

彼方灯火

第1章 不完全

第1話

 電車の中は空いていた。いつも通りだから、特に驚くようなことではない。窓の外で景色が流れていき、次から次へと建造物が後方に消えていく。こんなふうに、人は、視界に入っていないものは存在しないと考える。意識的にそんなふうに考えなくても、それと同じように世界を捉えているのは確かだ。


 暗闇月夜は、席に座ったまま曖昧な思考を展開していた。いつもなら車内では読書をするが、今日は本を持っていなかった。忘れたのではない。わざと置いてきたのだ。なんとなく、読書をする気にはなれなかった。そもそもの問題として、彼女は特別読書が好きではない。どちらかというと、読書という行為ではなく、本という媒体が好きだ。カバーの質感も好きだし、ページを構成する紙のざらつきも好ましい。こういうことをいうと、フェティシズムを疑われるが、人間は誰もが一定のフェティシズムを抱えている。それを表に出すか否かで、そういうレッテルが貼られるか否かが決まるのだ。


 室内は暖房が効いていた。冬休みが終わって、今日から学校が始まる。新しい年を迎えたが、彼女にそのような意識はなかった。どうでも良いことだ、というのが月夜の基本的な認識だ。正月らしいことは何もしなかったし、ちょっとした特異なイベントもあったが、それも無事に終了した。無事というのは少し違うかもしれないが、後々まで問題が残らない形で収まったのは確かだ。


 時刻は午前六時四十五分。普通なら、この時間に登校する必要はない。それは、年明けでなくてもそうだ。授業は二時間後に始まるから、誰がどう見ても早すぎる。しかし、月夜にとってはこれが当たり前だった。自分で決めてそうしているのだから、文句がないのは当然だし、言い方を変えれば、好き好んでこの時間に登校している。少なくとも、遅いよりは早い方が良い。まあ、別に、遅刻しても何も困らないが……。


 電車が停車し、ドアが左右に開かれる。いつもなら、彼女が乗っている車両には誰も乗り込んでこないが、今日は違っていた。制服、しかも月夜が着ているのと同じものを身につけた女子学生が、彼女の向かいのドアから乗ってくる。


 月夜はその少女を目で追った。どうしてかは分からないが、目を引かれるものがあった。


 月夜は自分の予感に気づく。


 自分は、きっと、彼女を好きになる。


 そう思った理由はない。


 けれど、この予感は絶対に当たる、といった予感が、確かな形で彼女の中に現れた。


 見知らぬ少女は、月夜の対面の座席に移動し、彼女から見て右斜め前の位置に腰かけた。両耳にイヤフォンをつけている。ベージュのコートを羽織っていた。髪はあまり長くなく、しかし短すぎでもない。自然な感じで適度に伸びている。


 ドアが閉まり、電車が動き出す。


 月夜は、少女の姿を見つめ続けた。


 視線に気づいて、少女は月夜を確認する。


 二人で見つめ合った。


 車内には、今は二人以外には誰もいない。


 視線が絡み合い、やがて、溶け合う。


 そんな不思議な感覚がした。


 少女は、月夜に向かって軽く微笑みかける。


 しかし、月夜は笑わない。彼女は、その必要がなければ、笑顔を作らない人間だった。


 少女は月夜から目を逸らし、肩かけタイプの鞄から教科書を取り出す。勉強熱心らしい。月夜もそれなりに勉強をする方だが、電車の中で教科書を開くのは稀だった。


 月夜は、少女が自分を見ていなくても、彼女を見続ける。


 少女は、そんな月夜の視線を、気にしていないみたいだった。


 だから見続ける。


 だから見られ続ける。


 人を見るのは、無料だ。別に、値段は関係ないが……。


 電車に揺られながら、学校の最寄り駅に着くまで、月夜はずっと少女を観察していた。仕草の一つ一つが可愛らしくて、見ていて飽きなかった。窓の外の景色と同じだ。しかし、今は、少女の背後に流れる景色は、月夜には認識されなかった。霞んでしまっている。少女の方がより輝いて見える。


 電車を下りるとき、少女が月夜に声をかけてきた。


「君、変わっているね」月夜の傍に寄って少女は言った。「他人のことを、あんなに熱心に観察するなんて、なかなかできるものじゃないよ」


 ホームを歩きながら、月夜は彼女と会話をする。


「ごめんなさい。でも、見たかった」


 少女は声を出して笑った。


「そんなにダイレクトに言われたこと、今まで一度もないよ」


「うん」


「うんって何?」少女は輝かしいほどの笑顔だ。「いやあ、面白いなあ。あ、君って、もしかして、僕と同じ学校なのかな?」


 少女の一人称が僕であることに違和感を覚えたが、月夜はそれは伝えず、少女の質問に答えた。


「この辺りには、学校は一つしかないから、その通りだと思う」


「へえ、そう。それは助かる。僕ね、今日からその学校に通うことになったんだ。転校生ってやつ。じゃあ、そういうことで、よろしく」


 月夜は頷く。


 月夜は、彼女が自分と同じクラスになる可能性が高い、と考えた。というのも、最近、彼女のクラスから転校していった生徒がいるからだ。その穴を、おそらくこの少女が埋めることになる。

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