歯痛

月丘ちひろ

歯痛

 豚骨スープに浮かぶチャーシューを口にした瞬間、口内に稲妻が走った。その痺れるような感触は左奥歯からじわじわと毒のように広がり、私の平常心を根こそぎ奪おうとしてきたのだ。


 初めて体験した感覚に私は取り乱し、レンゲをスープの底に沈めてしまった。だがレンゲを取ろうした際に凪いだ水面に左頬の膨らんだ私の姿が映っていたので、私の体に何が起こったのかを理解できた。


 私は初めて虫歯の痛みを体験したのである。


 それまでの私は誉められたことではないが、執拗に歯を磨かなくとも、歯科検診では良い結果が出たし、定期的に歯医者でクリーニングを受けていたので、ステレオタイプな虫歯とは無縁の生活を送っていた。それだけに人生の初の歯痛を経験した私は、それなりの齢に達し、健康が脅かされている恐怖を感じた。


 そいういうわけで、私はクリーニングで行きつけの歯医者へ足を運んだ。予約無しだったが、歯痛が酷い旨をこれでもかと説明すると、早めに診察してくれることになった。まずはレントゲンの撮影。撮影機に顎を乗せて、前歯で機械を噛んで撮影する。歯科検診を受けたときも撮影をしたので慣れてはいたが、今回は歯痛があり、額からは汗が滲んでいた。そして撮影が終わった後はしばらく待機し、レントゲン写真とともに診断を受ける。結果としては虫歯であったのだが、医師は難色を示していた。曰く、その虫歯は下の奥歯と親知らずの間にある隙間に出来ており、治療に一手間かかるということだった。虫歯になった歯の神経を取ってしまおうというのである。


 とはいえども、これまでも虫歯になりそうな歯を削ってもらたったりはしたことがあった私は、特別恐怖を感じることもなく、医師に治療をお願いした。そして私は治療用の座席に腰掛けることになった。だが虫歯の治療をされた方はわかるのかもしれないが、ちょっと削った程度終わるような温い治療ではなかったのである。それを治療開始早々から思い知らされることになった。


 まず最初に行ったのは歯のどの位置が痛むのかを確認することだった。まずは歯に堅いものをぶつけることから始まった。この担当医師がなかなかの霊感をお持ちで、言葉の通り最初の一撃目から稲妻が走り、私の体がビクビクンした。そして次点で麻酔注射。これに関しては最初のチクリが地獄のようだった。例えるなら、神経という名の弦楽器の弦を指で弾いたように痛みが響きわたった。


 そうしてようやく痛みが引き、本格的な処置が行われた。正しい手順は記憶できなかったが、私がこの治療で印象に残っているのは、医師が待ち針のような器具を、私の奥歯にグイグイ押しつけていることだった。麻酔が利いているから押しつけられている程度の認識だったが、このぐいぐい押しつけられる感覚が次第に強くなった頃に、再び口内に雷鳴が轟いたのである。それも今度は弦楽器がどうかなど考えられる余裕はなかった。熱湯の中に指を突っ込み続けたら、このような痛みになるのではないかと思うような激しいストレスに圧され、私はすぐにSOS信号を送り、痛み止めの処置をされ、そしてまた作業の途中で焼けるような痛みに襲われたらSOSを送り……という作業を繰り返した。その上、口を強制的に開口させられる器具により、大口を開けさせられ吐き気と痛みに堪える時間を送ったのだった。麻酔という道具は人類屈指の発明だとつくづく思わされたのだった。


 そうして私が長いこと悶絶し続けているうちに、詰め物やら何やらの処置をして治療は終わった。虫歯治療とは雷のごとき痛みに堪える作業なのかと、すがすがしい気持ちで会計を済ませるため、受付のお姉さんの元へ足を運んだ。

 おそらく痛みのあまりに目に涙が滲んでいたのだろう、お姉さんは優しい笑みを浮かべ、私に語りかけた。


「来週も同じ時間で予約とりますね!」

「え、は、はい……え、予約?」

「来週から本格的に治療していきますよ!」


 ……そう、私は痛みのあまり、治療後の医師の言葉を失念していたのだった。

 私の戦いはまだ始まったばかりらしい。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

歯痛 月丘ちひろ @tukiokatihiro3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説