カモメのお姉さんと、夏の約束。
みずの しまこ
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「母親に彼氏ができて気まずいんだけど、どうしたらいい?」
どうかしている。出会ったばかりの人間に対してする質問ではない。
「それは難問だねぇ」
からっと晴れた日の日差しみたいに笑ってくれることを知っていて、聞いた。
塩素の匂いが漂うプールサイド。頭上を羽ばたくのはカモメではなくウミネコだ。
夏休みを利用して母方の祖父母の家に遊びに来ていた。はやりのものなどなにもない海辺の田舎町で畑仕事を手伝ったり、宿題を進めるのにも飽きてしまった頃。
「泳ぎに行こうかな」
素麺をすする合間につぶやくと、祖父母は穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふ、そろそろ言い出すと思っていたわ」
「気をつけて行ってこい」
水着やタオルを詰め込んだバッグを持って炎天下を歩く。目的地に近づくにつれ、潮の香りが濃くなってくる。
幼い頃によく連れてきてもらった町営プールは、記憶よりずっと小さく感じた。着替えてシャワーを浴び、外へ出る。プールサイドの床はしっかりと太陽の熱を取り込んでいた。
並んでいる二つのプールから、深さのある二十五メートルの方を選んでゆっくりと足から水につかる。今は他に誰も入っていなくて貸し切り状態だ。隣の浅いプールから聞こえてくる子供達のはしゃぐ声に、いつまでも幼いままではいられないことを自覚させられた。
冷たいと思ったのは最初だけで、慣れると温いような気もしてくる。泳ぐわけでもなく、浮力に身を任せてクラゲのように漂ってみる。地に足を着けなければいけないのに。しっかりしなければいけないのに。だけどまだ高校に入学したばかり、一人で生きていけるわけがない。なんて中途半端な存在なのか。本当の意味で早く大人になりたかった。
塩素の匂いで肺を満たし、視界に広がる空を見上げながら、プール遊びの音に紛れている潮騒に耳を傾ける。すぐ近くに広大な海があるというのに、わざわざ狭いプールに閉じこもっている自分に嘲笑した。
そのとき。プールサイドに立ってこちらを見下ろしている女性と視線がぶつかってしまった。同年代くらいに見える。清潔感のある白い水泳帽と地味な紺色のスクール水着。日に焼けた健康的な肌の色が印象的で。
目を離せないままでいると、次の瞬間、彼女は片手で鼻を摘みながら勢いよくプールへ飛び込んだ。ばしゃん、と大きな音と水しぶきが上がって光る。監視員がこちらをジロリとにらんだような気がした。
水面から顔を出した彼女がふいに空を見上げたから、つられるように視線を追った。紺碧の空に散らばる雲の隙間を、数羽の鳥が泳ぐように通り過ぎていく。白い羽毛に灰褐色の翼。カモメだ、と思った瞬間。
「ウミネコだ」
彼女が言った。
「ウミネコ?」
つい反応してしまったがすぐに後悔する。今このプールにいるのは俺と彼女の二人きりなのに、声が聞こえるくらいの距離にいることが落ち着かなくて、離れたかった。離れようとしたのに。
「そう、ウミネコ。カモメ科ではあるけどね」
こちらに顔を向けた彼女にじっと見つめられる。なにもかも見透かしているような視線を受けて居心地が悪い。
「カモメという種が日本にいるのは冬なんだよ。夏、みゃーみゃーって猫みたいに鳴いてるのはウミネコ」
中学生にも見えるあどけない表情。澄んだ瞳が輝いている。青空と入道雲のコントラストとか、水面に反射する光とか、そういう美しいものばかり映しているのだろう。
それに比べて自分は。だんだんと見たくないものが増えてきたような気がして、だけど目を閉じるわけにはいかないから、心を閉じようとする。それが大人になるということなのだろうか。
「君は高校生くらいかな?」
うなずいて見せると、彼女はため息をつきながら目尻を下げた。
「いいなぁ若いなぁ。高校生なんて一瞬で終わっちゃうからね。精一杯楽しむんだぞ!」
まるで高校生活をすでに終えているかのような物言いをする彼女の、幼さが残る顔を凝視する。
「え、あんた何歳?」
「女性に年齢を聞くとか失礼だよ」
「同年代だと思ったんだけど」
「うそでしょ……信じられない。こんなに大人の色気がだだ漏れなのに」
「スク水だし」
「高校時代の……物持ちいいだけ……」
頬を膨らませたり落ち込んだり。豊かな表情はやはり年上には見えないし、色気の欠片もなかった。
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