幻想

春嵐

第1話

 景色。


 夢でも、現実でもない場所。たぶん、夢と現実のちょうど間ぐらい、絶妙なところにある場所。


 幻想的な風景だったから、幻想と名付けた。


 風景はもう思い出せないけど、感覚だけは残っている。その景色を見たときの、自分の心の動き。風か何か分からないけど身体の中をやさしく吹き抜けていく、ここちよさ。


 もういちど。あの景色のもとへ。


「あぶないっ」


 身体。掴んで引き戻される。

 爆発音。


「なにやってるんですかっ」


 頬を叩かれる。


「起きてますか。眼はついてますか」


 炎。


「あ、すいません。つい」


 実験室。


 新しい化学反応に関する、実験の写真。論文に使うのではなく、雑誌に載せる見映えのよい作品をひとつ。そういうオーダーだった。


 化学反応がメインなのではなく、経済誌に広告目的で載せられるもの。


 それでも。


 自分が撮りたいものに変わりはない。


 幻想を。


 ただ、それだけを。


「もうっ。何度言わせるんですかっ」


 引き戻されそうになる直前。掴まれる、ほんの一瞬、前。


 ボタンを押した。


 スマートフォンが光る。


「焼かれたいんですかっ」


 見なくても、分かった。撮れた。幻想に近いものが、撮れているはず。


「この化学反応、べつに人体に影響はないですよね?」


「ええ。ないですよ。でも、だからといって軽々に扱っていいというものでもありません」


 化学者。手袋とフェイスマスクを外した。


「さっきまでこの世になかったものです。いくら警戒しても足りませんから」


 女性。短く黒い髪。


「どうしたんですか」


「すいません。女性とは気付かず」


「女だから、何か?」


 自分の中の幻想にも、女性がいた。誰なのかは、分からないまま。顔も声も姿も、忘れてしまっている。


 それでも、幻想のなかに自分以外の誰かがいたという事実は、自分を安心させた。共感できる誰かがいる。


 その女性は、現実にいるとは限らない。夢の側にいる女性かもしれないから、期待はしていなかった。


 それでも。訊いてしまう。


「なぜ、この研究を?」


 女性。こちらに背を向けて、実験道具らしきものを片付けはじめる。


「この世にないものを、見るためです」


 振り向く。女性の顔。


「その顔。撮れたんでしょうね。見せてください」


 近付いてくる。


 距離が近い。


「ええ。加工前ですが」


 スマートフォンを見せる。


 写っていたのは、発火する直前の火花だった。白と青、そして黒。


「これは」


 女性。

 スマートフォンをじっと見つめたまま、動かなくなる。


「あの」


 女性。スマートフォンを見たまま。口調が、さっきとは違う。


「いえ。ええと。なんて言おう」


 困っているらしい。


 写真は撮れたので、もうここに用はなかった。あとは適当に、なるようになる。


 歩いて、研究室を出ようとした。スマートフォンのデータは自動でクラウドに送られる。


「現実と夢の狭間に、行ったことは、ありますか?」


 足が、止まった。


「あなたの写真は」


「それ以上言うな」


「ひっ」


 しまった。こわい声が出てしまった。


「すいません。つい。癖で。スマートフォンを返してください」


 女性のほうに近付く。おびえた顔。スマートフォンを、やさしく奪った。


 誰だろうと、自分の幻想に立ち入ることは、許さない。

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