第6話せまりくる足音
それから間もなく、お乱はようやく攻撃をやめて
一息つくことにした。ところがまだ物足りなかった信長は
ぐにゃりと折れた槍をほおばって音を立てながら一心不乱に吸い始めた。
数ある小姓の中でお手付きになっている者たちは
「乱はずるいな。おれたちにはあんなことしてくれないのに」
などと言ってしきりとうらやましがった。
「ほかの誰かがさっきみたいなことをやろうとしたら
間違いなく首をはねられるな」
小姓たちは目の前で繰り広げられる
合戦に気を取られがちになっていたが、
油断なく警戒を続けていた森坊丸が森力丸に
「おい、何か足音みたいなのが聞こえないか?」
とささやいた。
「ぼくにも聞こえる。上様、何者かに
つけられているようです。早くここを
立ち去りましょう」
と力丸に促された信長は
「わかった。お乱、支度を手伝え」
と自分と同じくあられもない姿の恋人(男)に命じた。
「我々がしんがりをつとめますので
お逃げください」
と坊丸と力丸は申し出たが、お乱も
「おれは坊と力と一緒にここに残って戦います」
と言いながら手にした槍を握りしめた。
信長が血相を変えて
「だめだ! おまえはわしと一緒に来るのだ!」
と叫んだので気を利かせた坊丸は
「兄さんは上様のそばにいてお守りして差し上げて!」
と言って兄をたしなめた。
「ああわかった。達者でな!」
「はい、兄さん。来世でまた会いましょう!」
兄弟や仲の良い同僚同士は涙を流して別れを惜しんだ。
ところが案に相違して、闇の向こうから姿を現したのは
尼装束の中年女一人だったので
一同は拍子抜けした。だが夜遅くにこのような場所に
女性がいるのは不自然であり、暗殺を命じられている
可能性もあると疑ったお乱は信長を守るように
立ちはだかると、女をキッとにらみつけ、
「おなごでも油断はならぬぞ。何者だ! 名を名乗れ!」
と居丈高に叫んだ。だが信長は相手の顔をまじまじと見て
「おまえは
今までどこに姿を隠していたのだ!?」
と叫んだ。今から二十数年前、信忠、信雄らの生母である
自ら城を抜け出して今に至るまで行方不明になっていた。
女はしわの多い顔に笑みを浮かべてこう言った。
「それを話すと長くなりますので後にしましょう。
上様が苦境に陥っていると聞いて居ても立っても居られず
助けにまいりました。このまままっすぐ進めば明智の軍に
捕まってしまいます。私が道案内をつとめますので
どうか信用してついてきてくださいまし」
結局、一同は曲がり角を何度も曲がったあげく、
とうとう古井戸から地上に出た。尼姿の濃姫はこぎれいな
屋敷に元夫とその近習たちを招じ入れた。
「みなさん、おなかがおすきでしょう。
どうぞ召し上がれ」
この女を信用できるかどうか一抹の不安が
あったにもかかわらず、全員腹が減っていたので
出された食事をすべて平らげてしまった。
小姓の中でも一番年下の者が
「なんだか眠い」
とつぶやいて意識を失ったのを皮切りに
みな次々と倒れていった。信長だけは失神しなかったが
体の自由が利かなくなってしまった。
「お乱! 坊丸! 力丸! 皆一体どうしたのだ!?
おい帰蝶、さっきの飯に何か盛ったな!
わしらをどうするつもりだ!?」
と叫ぶ信長を嘲笑いながら濃姫はこう言った。
「フフフ。昔自分で捨てた女が味方のはずが
ないでしょうに。そもそも少ない手勢で
あんな古寺に泊まるなど自殺行為に
ひとしいじゃありませんか。
そんなにわきが甘いくせに
よく天下人など目指していましたね。
私はあなたのもとを去った後、明智の城に
引き取られていましたの。五年前に
光秀の奥方が亡くなったのでてっきり
私を後添いに迎えてくれるものと思って
おりましたら、別なおなごと
しまったのです。あんな男の思い通りには
させたくなかった私はこうしてあなた方の身柄を
確保したというわけ。これからあなたには
死ぬよりも苦しい目にあってもらいましょう」
こう言い終わるやいなや、女が手をたたくと
隣の部屋からぞろぞろと南蛮人の集団が入ってきた。
彼らの正体は宣教師らと共に入国してきた
ポルトガルの奴隷商人である。
「すごいな。若くてたくましい体つきのばっかり!
戦士として使えそうだ。では早速、今夜船に乗せて出発しよう」
「この色が白いのは女体化させたら妾として
売れそうだな」
と言いながら髭面が意識を失っているお乱の
服を脱がせると紫色の粉をかけた。
「やめろ! お乱の体にさわっていいのはわしだけだ!」
「このギャーギャーうるさいオッサンはいらないんだけど。
威張ってるし、役に立たなそう」
「そう言わずに連れていってくださいな。もしよかったら
私の方から引き取り料を払いますから」
と濃姫。
「ハハハ、もしかしてこれあんたの旦那? こんなのと
結婚して災難だったね。気の毒だからまけとくよ」
こうして取引は成立し天下統一目前だった織田信長と
年若い小姓たちは手足を鎖で縛られて船底にくくりつけられ、
奴隷として海を渡ることになったのだった。
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