第2話

 人差し指から薬指の3本で、吊られたスポンジと食器とシンクを同時に触ってみたが、それぞれに違う反応が返ってきた。つまり、これは夢ではないということだ。指だけは擦りながら振り向くと、涙でかすんでいたが、灰色のスーツを着て眼鏡をかけた男が、すらっとしてテーブルの向こう側に座っていた。くすんだピンクのストライプ柄のネクタイを上まできっちりと締めている。彼は何をするでもなく、僕を見ているような見ていないような目つきをしていた。

 茶碗を銀の台に置いて、その下の棚から包丁を取り出そうとしたが、むやみに刺激してもまずいと思い、半開きの状態にとどめて何かを訊こうとしたのだが、いざ話そうとすると何を話せばいいのか分からなかった。でもそうだ、さしあたって訊くことはある。—「どこから?」 彼は少しだけ目を僕の方にずらすと、ゆっくりと答えた。—「富山からです」 そうじゃないだろう、と思ったけど、彼は平然として、その質問にはこう答えるのが当然だと疑ってもいない様子で、もしかしたら僕の方がおかしいのかもしれない。—「どうしてここに?」「…どうして?」 ついさっき水を飲んだはずなのに、僕の喉はカラカラになっていた。—「何か、理由があるんでしょう?」「理由がある?」 彼は心底奇妙なものを見た、という風に、初めて焦点を僕に合わせた。そして、何か微笑ましいものを見た、というような、戸惑ったような顔で言った。—「私がここに居るのに、何か必要でしょうか?」「そりゃあ、いるでしょう……」 僕は、顔が引きつっているのを自覚した。—「いや、というか、何をしてるんです?」「…? ぼうっとしてるんですよ。あなたもあるでしょう? ぼうっとして過ごすことくらい」 これは手に負えないと思い、父さんを起こすために男から目をそらさないようにしたまま部屋のドアを開け、隣の部屋に駆け込んだ。そこの住人の眠りに配慮している場合ではなかったので電気をつけたが、部屋の中は空っぽだった。空っぽと形容するほかなかった。両親の影はおろか、布団すら敷かれていなかった。慌ててリビングに戻ったが、あの男はいなかった。立つ鳥後を濁さず。痕跡どころか、においのようなものすら残っていなかった。

 銀の台の上に置かれていた茶碗を取って指であの3か所をなぞりながら水を飲んだ。間違っていたのは、この方法とあの男の存在の、どちらだったのだろう。じゃあ、両親はどこに? 今さらのように目が赤く疲れて、それ以上先に思考を進めることができなかった。

 トイレに行きたくなったので、隣の部屋との間にあるトイレに向かった。隣の部屋の電気を消し忘れていることに気が付いたが、もう一度あのドアを開ける勇気はなかった。中に入って便器のフタを開けると、新生児服を着た赤ちゃんが中で眠っていた。ははははは。何も見なかったことにしてフタを閉じる。大丈夫だ、一晩くらい。前に入院したときは、尿瓶にしようと思っても、強情にでなかったんだもの……

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