第三節 あの日の約束と確かな思い
1
朝の日差しが差し込み、部屋を照らす。
眠っている顔に光を浴びて、セシルは微睡の中目蓋を開いた。
朧げな表情で上体を起こして小さく欠伸をする。眠気により頭が回らず、呆然と周囲を見回した。
ハッとセシルの意識が覚醒する。隣にいるはずの者がいないと気がついたからだ。
慌ててベッドから飛び降りると、大きな物音を立てて部屋を出る。ドタドタと階段を駆け下りた先に目的の人物はいた。
「あ、おはようセシル」
微笑むソラの姿に、セシルは安堵の息を吐く。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「だってなにも言わずに行っちゃったのかと思って」
「あはは、そんなことしないよ」
ソラは笑うと、近づいてセシルの頭を撫でた。
「あ、とそうだ。それより……はいこれ」
なにかを思い出したように言うと、ソラは一つ包みをセシルに手渡した。
「これはなに?」
包みを受け取って首を傾げる。中を開けてみると、ひとつパンが入っていた。昨日ソラが買った、りんごで作ったジャム入りのパンだ。
「昨日買ったやつなんだけど、良かったら一緒に食べない?」
ソラの手には同じ包みがもう一つ握られていた。それを見てセシルは明るい表情で強く頷く。
椅子に座ってパンを食べながら、ふとセシルは周囲を見渡すと、小首を傾げる。
「あれ? お母さんは?」
母親であるレフィナの姿がない。今の時間であれば起きていてもおかしくはないのだが。それに朝食の準備がされている様子もない。
口の中のパンを飲み込んで、ソラは答える。
「朝早くから出掛けたみたい」
「そっか……」
二人の間に沈黙が流れる。昨夜は意気揚々と話していた二人だが、どこかぎこちない。
「セシルはさ、お母さんのこと好き?」
「どうしたの急に?」
「なんとなく気になって」
「勿論大好き! 優しいし、美味しいご飯作ってくれるし!」
「そっか……うん、そうだよね」
微かに笑うソラを見て、セシルは小首を傾げる。そして物憂げな表情でソラの顔を見つめた。
「お兄ちゃん、本当に今日帰っちゃうの?」
「うん。一度村に帰るつもりだよ」
「もう会えない?」
「大丈夫。また会いに来るから」
食べる手が止まり、セシルは俯く。
「僕……もっとお兄ちゃんと一緒にいたい」
セシルの目に微かな涙が浮かんでいる。そして何かを請うように顔を上げた。
「僕、お兄ちゃんみたいになりたい。お兄ちゃんみたいに魔法を使って沢山の人を助けられるようになりたいの」
「それは……どうして?」
セシルはまた俯く。唇を結び、食べかけのパンを見つめた。
「お母さん、最近元気が無いの。ずっと何かを無理しているような笑顔を向けてて、苦しそうにしてるの」
「セシル……」
ああ、そうかとソラは内心で呟く。セシルはどこか昔の自分に似ている。そう感じていた。だが実際は似ていたのではない。かつての自分と今の彼女は同じなのだ。彼女もまた母親の異変に気づき、なんとかしたいという思いを胸に秘めている。他の誰でもない、大切な人のために。
「だから僕、もっと色々なこと教えてほしいの! 沢山のことを教えてもらって、そしてお父さんみたいな人になってお母さんを助けてあげるの。お母さんが前みたいに心の底から笑えるようにしたいの! だから――」
セシルが何かを言おうとした時だった。
突然、玄関の扉が勢いよく開けられた。玄関の先にいるのは三人の男たち。その誰もが、腰に短剣を携えて物々しい雰囲気だ。
「おい、そこのガキ。こっちに来い」
男の一人に睨まれて、セシルは体を竦ませる。
「大丈夫。安心して?」
ソラは手のひらを優しくセシルを撫でると、男たちを睨み返した。
「なんですか? あなたたちは」
ソラはこの男たちに見覚えがあった。昨夜、何かレフィナと揉めていた男たちだ。その男たちがなぜセシルを求めているのか。
「なんだお前。部外者は黙っていろ」
「そう言われて下がるほど、ボクもお人好しじゃないんで。それにこの子怯えているでしょう?」
中央に立つ男は舌打ちすると、腰の短剣を抜いた。
「悪いがこちとら忙しいんだ。そのガキをさっさと渡せ」
「断ると言ったら?」
「怪我程度じゃ済まないな」
男の言葉に続いて、脇に控えていた二人の男も短剣を抜いた。
ソラも身構えて、セシルを守る体勢を取る。
緊迫した空気が両者に漂う。
「待ってください」
今にぶつかり合いそうな両者。そこへ割って入るように、透き通った女性の声が響いた。
「ここは大切な家です。暴れられては困ります」
男たちの間から、一人の女性が姿を現した。
「お母……さん……?」
レフィナの姿を見てセシルが呟いた。
対しレフィナは、静かに落ち着いた眼差しでセシルを見る。彼女の瞳にはどこか、なにかを決めたような強い意志が宿っている。
「セシル、言うことを聞いてこの人たちに付いていきなさい」
「え? なんで?」
「今日からお前は、この人たちのところで暮らすの」
「え……?」
話が飲み込めず、セシルは戸惑う。
「レフィナさん、それどういう意味ですか?」
「あなたに話す必要はありません。あなたは私の家族ではないのですから」
彼女の言うとおり、部外者であるのは事実だ。本来であれば口出ししてはいけないのかもしれない。
だがソラは感じていた。男たちから漂う嫌な雰囲気を。何か嫌な予感がするのだ。故に簡単に見過ごせるはずがなかった。
「ソラさん。あなたはこの家の者でもなければ、この街の人間でもないはずです。でしたら大人しく引き下がってくれませんか?」
返す言葉が見当たらない。自然とソラはセシルを庇うのをやめていた。
「お兄ちゃん?」
セシルの呼びかけにソラは歯噛みする。
「すいません、よろしくお願いします」
レフィナの申し出を受けて、取り巻きの男二人がセシルの腕を掴む。
「待ってよお母さん! 説明してよ! どういうこと!?」
「おい、大人しくしろ!」
腕を引っ張られながらも、セシルは踠いて抵抗する。が、レフィナはなにも答えようとはせず、顔を伏せたままだ。
「これでこの家の借金は全額返済したことになる。せいぜい楽しく暮らすことだな」
吐き捨てるように言うと、男たちはセシルを連れて出て行った。その際、セシルは何かにすがるような眼差しをソラに向けていたのだった。
男たちが去り、家の中を静寂が包む。
「レフィナさん……一体どういうことか説明してもらえませんか?」
ソラは拳を握りながら問いかけた。
一方のレフィナは答えない。顔を伏せたまま、昨晩使用した食器の片付けに取り掛かる。
「セシル……泣きそうな顔をしてました。きっと……どうして? って思ってたんだと思います。それはボクも同じ気持ちだ」
皿を洗う水の音が部屋に響く。
「答えてください、レフィナさん」
「出て行って下さい。ここは私の家です」
「嫌です。話を聞くまでボクは出て行かない」
レフィナは静かに皿を洗う。その手は微かに震えている。
「答える必要はありません。これは私が選んだんです。なにも後悔はしていません。セシルが幸せになるなら――」
「だったらどうして泣いてるんですか?」
ソラの言葉に、レフィナは唇を噛んだ。泣いていた。彼女の頬には一筋の涙が伝っていた。流れた一雫が皿の上に落ちる。
「後悔していないなら、なんで泣いているんですか?」
「黙ってください」
「本当はそんなこと思っていないんじゃ――」
「黙ってよ!」
言葉を遮るようにレフィナは叫んだ。
「あなたに何が分かるの!? 私の気持ちが! どれだけの思いでこの選択をしたのか、あなたに分かるわけが――」
叫びながら振り返り、ソラの顔を見て言葉を詰まらせた。
落ち着いた表情の中に、静かな怒りが彼の瞳に宿っている。故に何かを言う言葉を失ってしまった。偏に彼の笑顔を知っているから。
「分からないですよ。分かるわけがない。ボクはあなたじゃないんだ。でも……だから聞きます。あなたの本心を聞くために」
ソラは歩み寄る。涙を流すレフィナに。
「もう一度聞きます」
気持ちを落ち着かせるように、一度目蓋を閉じる。かつて言われた言葉が蘇る。そして、ソラは微笑んだ。
「あなたは……本当はどうしたいんですか?」
ソラの問いに、レフィナは唇を震わせた。
持っていた皿から手が離れる。皿は地面に衝突し音を立てて割れる――ことはなく、手から離れた瞬間ソラが受け止めた。
「あなたの願いを、ボクは聞きたい」
「私は……私は……ッ!」
レフィナは膝から崩れ落ちる。彼女の脳裏にセシルの姿が思い浮かぶ。一緒に笑い、一緒に過ごしてきた時間が思い浮かぶ。
手放せるはずがなかった。簡単に割り切れるはずがなかった。セシルは自分にとって大切な娘なのだから。
「私は……私はセシルと一緒にいたい……ッ!」
「うん。それを聞いて安心しました」
「でも私にはどうすることも出来ない……ッ! あの子のために何もしてあげられない……ッ!」
「だったらボクがなんとかします。だから事情を話してください」
レフィナは泣きながら事情を話した。
レフィナの家と土地はリヴェルトス商会から購入したものだという。支払いは夫の稼ぎのおかげで早々に済ませ、この家で三人平穏に暮らしていた。
だが夫が亡くなってからある日、リヴェルトス商会の人間に言われたのだ。
「この場所の支払いは終わっていない。そう言って、当時購入した値段の倍の額を突然要求してきたんです」
そんな金額をすぐに支払えるはずがなかった。幸い期限を言われなかったため、働いて金を稼ぎ、少しずつ返済する生活を送っていた。
「どれくらいの期間を?」
「もう半年になります……そしてつい七日前に突然期限を言われて……」
「それはいつなんですか?」
「今日です……今日、支払いを終わらせろと」
当然残りの額を一度に支払うだけの財産はなかった。そこで朝早くから出掛け、なんとか期限を伸ばしてもらえるよう商会のところへと懇願しに行ったのだ。しかし帰ってきたのは。
「ならば子供か家のどちらかを差し出せって言われました。でも私にはどちらか一方だけを選ぶことなんて出来なかった。この家は夫ともに多くの時間を過ごした思い出の場所でもあるんです。それを簡単に手放せるはずがなかった」
「それでセシルを渡す方を選んだ……」
「差し出せばあの子の裕福な生活は保証するって。いつもあの子に何かを我慢させていたんです。だからあの子の幸せも考えたら、それが一番だと」
話を聞き、ソラは持っていた皿をテーブルの上に置いた。
「レフィナさん。セシルがさっき、ボクになんて言ったか知りたいですか?」
ソラの問いにレフィナは首を縦に振る。
「だったら教えてあげます。あの子、レフィナさんが心の底から笑えるようにしてあげたいって言ったんです。どうしてかわかりますか?」
ソラの問いにレフィナは被りを振った。
「そんなのあなたと一緒に笑っていたいからに決まってるじゃないですか」
「じゃあ私は……どうしたら……!」
ソラは軽く息を吐くと、玄関へと歩んでいく。
その音を聞きレフィナは顔を上げた。ソラの背中が、彼女の視界に大きく映る。
「ボクを信じて待っててください。絶対に連れ戻します。そしてあなたの肩に掛かっている重荷を無くしてあげます」
そう言い残すとソラは静かに出て行く。
残されたレフィナは唖然とした表情で扉を見つめ、そして叫んだ。
「どうして? どうしてあなたはそうやって誰かのために動こうとするんですか!」
レフィナは理解できなかった。赤の他人のために自分の身を賭ける、一人の少年の行動を。夫と重なるその行動の理由を。
問いに答えるように、扉越しにソラは呟いた。
「だってボクは……大切な人と沢山の人を笑顔にするって約束したから」
固い意思を胸に、ソラは駆け出す。誰かの笑顔を取り戻すために。
◇
ヘルディロから遠く離れた国リヴェルタ。商業の国として広く知られ、この国が運営するリヴェルトス商会は世界を股に掛けて活動する商業組織だ。
複数国で売られている商品の大半はリヴェルトス商会が管理している。それはヘルディロも例外ではない。言うなればギルドが商いを行うようなものである。そのためリヴェルトス商会に加入する者は厳正なる審査を受けることが義務付けられている。商会の掲げる理念は〝公平かつ公正な取引を行うこと〟だ。
さて、そんなリヴェルトス商会の本部があるリヴェルタの首都・リヴェルテスは現在夜だ。一日の仕事を終えた者が酒場に立ち寄ったり、あるいはどこかレストランに立ち寄ったりと夜の食事を楽しむ時間帯である。そのため街の至るところで賑やかな声が響いていた。
その街の中をユース=テア=ガルディアンは一人歩いていた。腰には一振りの長剣を携えて、物静かな立ち居振る舞いをしている。
街の中央には一際大きな建物が聳え立っている。屋根付近の壁には紋様を象った装飾が施され、その下には〝リヴェルトス商会〟の文字が刻まれている。リヴェルトス商会の本部だ。
ユースは本部の前で立ち止まると、建物を見上げて嘆息を漏らす。
「頼むからお前ら、面倒ごとだけは起こすなよ?」
腰の剣に触れて、ユースは一人呟く。彼の周囲に人は見当たらない。
「これ殴り込みじゃなくて、話を聞きに来ただけなんだからな。そこのところ分かってるか?」
ユースの問いに答える者はいない。側から見れば独り言を言っている人間だがしかし、彼は呆れ返った表情で扉に手を掛ける。
「まったく。相変わらず先が思いやられる」
愚痴を言うと、ユースは商会本部の中へと姿を消した。
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