第四節 最初の出会いは光となって
1
ソラは両手でトゥネリを抱えて走っていた。
背後では、戦闘の音と魔物の叫びが響いている。
町の人々は魔物から遠く離れたところに避難しているようだった。
普段なら付いているはずの家屋の明かりがない。人の気配が、一切感じられない。
「見えた!」
ソラの視界に、住人の集団が入ってきた。彼らが向かったのは、どうやら警護兵の駐屯所のようで、押し寄せる波を抑える兵士の姿もあった。
人々の顔には、不安が現れている。中には「あんな化け物、どうするんだ!」と叫び声を上げる者もいる。
「ごめん、もうちょっと揺れるけど我慢してね」
謝りながら、ソラはトゥネリの方を見た。
トゥネリは呆然とソラの顔を眺めている。その目からは、止めどなく涙が溢れている。
「あの、すいません! 誰かこの子をお願いできますか!」
集団に合流し、ソラは叫ぶ。
「トゥネリちゃん!」
「おぉ、無事だったのか」
トゥネリの姿を見て、老夫婦が駆け寄ってきた。
どうやらトゥネリの言っていたお爺ちゃんとお婆ちゃんなのだとわかると、ソラは彼女の体を二人の前に下ろす。
「大丈夫かい? 怪我はないかい?」
老夫の問いに、トゥネリは小さく頷く。
「ああ、可哀想に。こんなに泣いて」
老婆がトゥネリの体を優しく抱きしめる。
(よかった。トゥネリにはまだ、大切に思ってくれてる人がいるんだ)
ソラはその光景を、安心した表情で見ていた。
「君がこの子を助けてくれたんだね、ありがとう」
「いえ、ボクはただその……友だちを助けたいと思っただけですから」
「それでもいいんだよ、ありがとう。こんなに小さいのに」
ソラは照れくさそうに俯く。
そんなソラの前に、一人の女がやってきた。少し裕福そうな格好をしている貴婦人だ。
「ねえ、うちの子は? うちの子はどこなの!?」
どうやら情報は拡散し、すでに事の顛末が知れ渡っているようだった。
そしてこの女性は、母親のようである。
問われて、ソラは思い出す。最初に連れて行かれ、救うことの出来なかった兄妹のことを。
どう答えるべきか迷った。だがどれだけ嘘を取り繕おうと、現実は覆らない。
「……ごめんなさい」
ソラは一言、こう言うしかなかった。
「ごめんなさいって、どういうことなの? ねえ、どういうことなのよ、答えなさいよ!」
「お前、止しなさい」
興奮し始めた女性を、一人の男性が止めに入った。彼が夫のようである。
「あなたは黙ってて! ねえ、うちの子はどこなの! 連れてきなさいよ!」
癇癪を起こす女性に対し、ソラは俯くことしかできない。
彼らを連れてくることなど、もう叶わないことだ。故にただ「ごめんなさい」と言うしかなかった。
「どうしてよ! どうして他の子は助けたくせに、うちの子は助けてくれなかったのよ!」
「この子だって精一杯やったんだ。そう責め立てるな。相手は子供だぞ」
「じゃあどうしろって言うのよ! ただうちの子が死にました、はいそうですかって言えっていうの!? 言えるわけないでしょ!」
「いい加減にしろ! 私だって辛いんだ。頼むから抑えてくれ」
繰り広げられる言い争いに、ソラの胸は締め付けられる。
あと一歩でも勇気を出していれば、彼らの命も奪われずに済んだかもしれない。
拳を握り、強く唇を噛み締めた。
「ソラを……責めないでください」
ふと、か細い声が聞こえた。
「ソラは何も悪くない。悪いのは……わたしだから」
声は、トゥネリのものだった。
トゥネリは女性の前に立つと、震えながら俯く。まるで何かを求めるかのように。
「全部、わたしが悪いんです。わたしがパパの言葉に従ったから」
「パパ? そうか。そういえばあなた、あの男の娘だったわね」
女性がトゥネリを見下ろす。その目には、怒りが垣間見える。
「待っておくれ。その子はなにも――」
「いいの、お婆ちゃん。私は罰を受けなきゃいけないの。人を殺した罰を」
女性は手を大きく振りかぶった。
「おい、お前!」
男性が引き留めようとして、止まった。
何かが、自分の頭の上に落ちてきた。トゥネリは、顔を上げて女性を見る。
女性は泣いていた。自分が流したのと同じように、溢れんばかりの涙が頬筋を伝っていた。
「返して……返してよ……うちの子たちを……!」
女性はわかっているのだ。子供である二人を責めても、どうしようもないのだと。ただやり場のない怒りと悲しみの捌け口が欲しかっただけだ。
故に、制裁を加えることができなかった。できるはずもなかった。この少女の気持ちを考えれば、そんなことが許されるはずもないと。
女性は膝から崩れ落ちると泣き喚いた。
「お前……」
夫である男性は、女性の肩に優しく触れた。すると女性はそれにすがり、男性の胸で泣いた。
ソラとトゥネリは各々葛藤していた。片や救うことのできなかった人間として。片や加害者の娘として。
子を嘆く夫婦の姿を見て、居たたまれなさを感じながらも、ただ立ち尽くすしかできない自分に弱さを感じていた。
「グギャアアアアアアアア!!」
不意に、悲鳴にも似た、野太く一際大きな叫び声が響き渡った。
何事かと、聞いた全員が声の方を見る。
「なんだ、あれは……?」
誰かが呟く。
巨大な何かがいた。その何かは、あの魔物の姿をしていた。
「エイネ?」
ソラが呟く。
おかしい。あの魔物はあんなにも巨大な姿をしていなかったはずだ。大きさは大人になった女性ぐらいのものだったはず。なのに今視界に映っているのは、まるで高くそびえる時計塔のように大きくなっているではないか。
ソラは目を凝らした。
そして見つけてしまった。巨大な触手に縛り上げられ、苦しそうに悶えるエイネの姿を。
「エイネ!」
ソラは駆け出す。あの巨大な魔物のいる方向に。
「君、待ちなさい! 君!」
誰かが呼び止めている。だがソラにとっては些細なことだった。
ソラは走る、ひたすらに。
(嘘だ、嘘だ! エイネ……! エイネ!)
「いやああああああああーっ!!」
魔物の下に着いたのと同時に、エイネの口から大きな悲鳴が上がった。
「エイネ!」
魔物は楽しそうに笑みを浮かべ、悲鳴を聞いていた。
そしてさらに強く縛る。
骨が軋む。肉が裂け、血が噴き出す。血が入り交じった胃液が逆流し、口から泡のように溢れ出す。圧迫感が、呼吸を奪う。
エイネの意識はもう風前の灯火だった。
「やめて……やめてよ! エイネ! エイネ!」
漸くエイネは叫び声に気がついた。
「ソラ……逃げ――」
言葉が途切れる。
魔物が突然拘束を解いたのだ。
エイネの体が宙に浮く。
エイネは魔物の方を見た。
笑っている。まるで嘲笑うかのように。
そして魔物は宙に浮いた体に巨大な触手を打ちつけた。
「エイネ!?」
エイネの体は悲鳴を漏らす間もなく、地面に叩きつけられた。
その衝撃は、地面を抉るほどのものだった。
大量の血がエイネの全身から飛び散り、赤い血だまりを作る。
彼女の意識は完全に途絶えていた。
「あ……あああああああああ!!」
ソラの悲痛の叫びが闇夜の空に響き渡った。
◇
エイネと魔物の戦闘は凄まじいものだった。
魔物は形の反面、素早い動きが可能。触手を捕食のためだけでなく、それを利用した動きをすることで相手の意表を突く動きが得意のようだ。
一方のエイネは、万全に近い状態。肉体に強化の魔法を掛け、従来以上のスピードを出して魔物の攻撃に対抗する。迫りくる触手をすべてナイフ一本で対処し、腕による攻撃はすべて身を翻して躱した。
両者一歩も譲らぬ戦いだが、エイネの方が分が悪かった。
魔物の動きは単純だ。すべて読み切ってしまえば、被弾する恐れは少ない。
「光よ……その存在で魔を払い、切り裂け!」
エイネの詠唱とともに、ナイフの切っ先から光の斬撃が放たれる。
それらは魔物の腕、触手、皮膚を切り裂いていく。
動きは単純。だが傷ついた側から、魔物の傷口は元通りに治ってしまう。そのため現状この魔物を倒す術を見つけられずにいるのだ。
魔物の攻撃を躱しながら、エイネは思考する。
(こいつ相当魔力機関を食らって吸収してる。並大抵の攻撃じゃ倒しきれない)
下半身の触手が足下を狙って伸びてきた。
エイネはそれを跳躍して躱す。
その隙を狙ってか、上半身と背中の手、髪の毛にあたる触手が迫り来る。
それをエイネは空中で体をひねって、ナイフから斬撃を飛ばして切り落とす。
「紅蓮の業火よ、我が身に降りかかる災厄を焼き払え……!」
さらに傷口目掛け、炎の球を数発撃ち放った。
痛覚はあるようで、傷ができる度に魔物は悲鳴を上げて仰け反っている。
しかしどれも致命傷にはならない。傷口を焼けば再生を阻止できるかと目論んでみたが、効果はない。焼けたとしても、すぐに再生し元の形に戻っている。
(魔力がある限りこいつは再生する。私の限界が来るか、こいつの魔力が底をつくかが分かれ目……かしらね)
着地して、エイネは距離を取るために後ろに跳んだ。
逃すまいと、魔物は弾かれた弾丸のようにエイネに迫る。
「まったく面倒なやつね! 本当に!」
エイネは素早く反応し、突進を高く跳び上がって躱す。
勢いを殺せなかった魔物は、背後にあった家屋に激突した。
エイネは魔物との攻防の間に深く観察していた。
再生箇所が多いことから、この魔物が再生する際に必要とする魔力も必然的に多くなるはずだ。このまま削っていけば、魔力の消費を促すことはできる。
一方で見た目からでは魔力量を測ることはできない。どれだけ内包しているか、という計測をする方法は未だに発見されていないのだ。目測などでは不可能といえよう。
つまり、下手をすれば自分が先に限界を迎えてしまう。そうならないためにも、何か手を打つ必要があった。
(でも考えられる手段なんて、ひとつしかないわよね)
エイネは苦笑する。
魔力を生成するための核とも言える場所。そこに深い傷を負わせれば、魔力の消費を今以上に促せるはずだ。攻撃を躱しながら、その場所を探す。
考えられる場所は脳天、あるいは上半身が人体であることから心臓付近。これら目掛けて、まずは仕掛けるしかない。
「主よ……我が肉体に加護を……」
強化の魔法を重ね掛けし、エイネは地面を蹴って駆け出した。
まず狙ったのは心臓部。大概の人間はここに魔力生成機関を保有している。稀に心臓とは反対側にその機関があるものもいるが、それを考慮したとしても、両胸を一気に切り裂けばいい。
「グギャアアアア!!」
目的を理解したのか、魔物はすべての触手を使ってそれを阻止せんとした。
エイネは冷静に対処する。
最短距離で行くために、自分には届かないと判断した触手は躱し、届きそうなものは切り裂く。
魔物は腕を伸ばして掴み掛かるが、これに対してもエイネは冷静に対処する。
今までの動きで、この魔物は速さはあれど細かい動きが苦手だとわかっている。同時に腕を伸ばしたとなれば、向かってくる場所は一点に集中するはず。エイネはその瞬間を見極め、屈むことで躱した。
(よし、これで届く!)
ナイフが当たる距離まで来た。地面を蹴り、エイネは腕を伸ばして魔物の心臓部と思われる場所――左胸目掛けてナイフを突き出す。
「グギャアアアアアアアアッ!?」
魔物は一際大きな悲鳴をあげた。
エイネはそのまま、右胸目掛けて一気に切り裂いた。
血が噴き出す。その血は人や使い魔のそれとは違い、紫色に変色していた。
「ぐぁ……熱っ……!」
血は焼けるように熱かった。
その熱さに思わずエイネは力を緩めてしまう。顔や腕に火傷を負い、堪らず距離を取った。
血は確かに出た。その出血量は、人間が心臓を刺された時と同等といえる。
しかしどういうわけか手応えがない。魔物の上半身の中はまるで空洞のような感覚だったのだ。
(違う! 核はここじゃない!)
体勢を整え直そうとするエイネだったが――
「がっ……!?」
腹部に衝撃を感じ、口から血を吐き出した。
「ぐぁ……!?」
魔物の腹を裂いて、腕が突き出ていた。突き出た腕は彼女の腹を捉えて、押し込んでいる。
「がふっ……! ぐああっ!?」
逃げようとする体を、背中の五本の腕が掴んで離さない。
このまま体を拳が貫いてしまいかねない程に、力が強まっていく。
「ぐあっ!? が、あああああっ!?」
苦しむ姿を見て、魔物は愉悦に浸っていた。にやにやと、口元に笑みを浮かべている。
そして拘束を離し、まるで弓を放つかのようにエイネの体を弾き飛ばした。
弾かれたエイネは地面を跳ね、背後の家屋に直撃する。
木造家屋とは違い、直撃した家屋はレンガで出来ていた。
「がっ……ぁ……」
強い衝撃が、エイネを襲う。
(これは……まずい……わね……)
意識が揺らぐ。体が重い。衝撃に耐えられず、ナイフも手放している。
エイネは追い込まれていた。
(参ったわ……格好つけといてこれか……)
可笑しくなり、エイネは笑みを溢す。
このままでは命の危険があるというにも関わらず、笑いが出る。
力を振り絞り、血反吐を吐きながらも身を起こし、魔物に視線を向けた。
「ははっ……なによそれ……」
さらに笑えてくる。
魔物はでかくなっていた。その大きさは、家屋など小さく見えるほどに巨大だった。
事もあろうか、エイネの一撃はただ火に油を注いだに過ぎなかったのだ。
エイネの開けた傷口を治すために、魔物は多くの魔力を注いだ。その結果流れる魔力の量に合わせて、体が膨張し始めたのである。
魔物が傷ついたエイネを見下ろす。
笑っている。格好の獲物となった彼女に向けている。
そして下半身の巨大な触手で、エイネの体を持ち上げた。
(ごめんソラ、ちょっと無理かも……)
抗う術はなかった。力が入らず、ただされるがままに拘束される。
エイネは走馬灯のように、ソラの笑顔を思い浮かべた。それに対し、笑みを溢す。
だがその笑みは長くは続かなかった。
触手がエイネの体を強く締めつけ始めたのだ。
「……ぁっ!」
痛みと苦しさに、エイネの顔が歪む。上空を見上げて、苦しさに悶える。
締め上げる力が強まった。
骨が軋む音が鳴り始める。血管が裂け、皮膚が破け、そこから血が流れ出す。
「がっ……ぁ……!?」
さらに締める力が強まった。
エイネの口から泡のように血が入り交じった液体が溢れる。
「いやああああああああーっ!!」
力に耐えられず、骨が砕けた
痛みに耐えられず、エイネは悲鳴を上げる。
目から涙が溢れ、恐怖でどうにかなってしまいそうだった。
それでも魔物は力を緩めなかった。むしろ面白がって、さらに力を込めている。
「やめて……やめてよ! エイネ! エイネ!」
もう意識を保っていられなくなったその時、エイネの耳に声が届いた。
朦朧とする視界に、必死に泣き叫ぶソラの姿があった。
「バカ……なんで戻ってきてんのよ」
掠れた声で、エイネは呟く。
(ああでもそうか。私ちょっと期待してるのかな?)
そして微かに笑みを浮かべる。
(あの子みたいに……かっこよく助けてくれないかな……って)
エイネは自分の思考に嫌気がさしていた。こんな状態であるのに、ソラを見るとつい逸れた考えを行ってしまうことに。
「ソラ……逃げ――」
逃げて――そう言おうとして、彼女の口は動きを止めた。
突然、魔物の力が弱まったのだ。
「……ぅぇ?」
間の抜けた声を発し、思わずエイネは魔物の方に顔を向ける。
魔物の口が動く。まるでエイネだけに伝えるかのように。
「アッチノホウガウマソウダ」
「――っ!?」
瞬間、今までに感じたことの無い痛みと衝撃に、ぶつりとエイネの意識は切れた。
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