薪がはぜる音が響く。コトコトと、何かが沸騰する音が鳴る。

 薄暗い小屋の中に一人の男が座っていた。口を覆うほどの白く長い髭を生やし、同じく白い前髪は目が隠れるほどに長く、体格はまるで熊のように大きい。

 男の住む小屋の中にはひとつだけベッドがあった。木で出来た枠の中に、干し草が入れられている。その上にシーツを引いてこしらえたものだ。

 そのベッドの上にエイネは眠っていた。両腕に包帯が巻かれ、血が滲んでいる。

 瞼が微かに動く。


「うっ……うぅん……」


 唸るような声を発すると、ゆっくり瞼が開いた。

 体を起こし、朧気な意識のままエイネは周囲を見渡す。


「ここ……は……?」


 知らない場所だ。エイネは思うと、ハッと意識を覚醒させた。こんなところにいる場合じゃないと。

 すぐに立ち上がろうとした。が、全身に痛みが走る。


「ぐぅ……」


 体が悲鳴を上げている。それでも向かわなければならない。エイネは固い意志で立ち上がった。


「そんな体でどこへ行くつもりだ」


 声を掛けられて、エイネは男の方を向いた。

 男は動くなと睨んでいる。


「わかってます。でも、私は行かなきゃいけないんです」


 エイネはこの男に見覚えがあった。いつだったか、ソラが森に迷ったときに保護してくれた男だ。当時名前を聞きはしなかったが、悪い人間でないのは確かである。

 だからエイネは安心していた。きっとこの人なら理解してくれるだろうと。


「助けてくれたのは感謝しています。でも今すぐにでも行かなきゃ」


 男は立ち上がった。鋭い眼光がエイネに突き刺さる。

 エイネの体はまるで金縛りにでもあったかのように動かなくなっていた。何をされたわけでもない。ただ睨まれただけだ。


「わからんのか。今は行くなと言っている」

「で、でも私は……」

「……その口を閉じろ」


 エイネは唇も思うように動かせなくなった。何かを続けて言おうにも、呻き声を発することさえできない。


(なに……これ? どうなってるの?)


 エイネの額に汗が滲み出る。体と心が目の前の大男に恐怖し屈服していた。


「お前さん、この程度で息が上がっていてどうにかできるとでも思っているのか?」


 エイネは答えられない。答える意思さえも剥奪されている。


「わかったなら大人しくそこに座っていろ」


 エイネは男に従うままに、ベッドに腰を掛けた。

 するとエイネの体は何かから解き放たれたように軽くなる。気がつけば息も大きく荒れていた。

 荒れた呼吸を整えながら、エイネは男の方を見た。

 男は暖炉の前に腰を掛けると、火に掛けた鍋の様子を眺めている。

 不穏な静寂が、小屋の中を漂う。もしここに入った者がいればすぐに逃げ出してしまうことだろう。


「そういえば自己紹介がまだだったな。俺の名前はアウルス=ウィル=アニム。この小屋で一人暮らしている老いぼれだ」


 突然、なぜ自己紹介を始めたのかエイネはわからなかった。だが名前を言われればこちらも答えるのが礼儀というもの。エイネも男に続いて名前を言おうとした。


「お前さん、ヴェルティナに引き取られた使い魔だろう?」


 エイネは思わず息を呑んだ。なぜそのことを、と。考えられるのは一つだけ。この大男もヴェルティナの関係者ということだ。


「名前は、ええと、なんと言ったっけか」

「エイネです。エイネ=ヴェゲグ=ヌング」

「ああそうそう、エイネだ。すまんな、歳のせいで物忘れが多くてな」


 男はため息を吐く。


「あの坊主は元気にしているか?」

「え、あ、はい。でも今あの子が――」

「皆まで言うな。お前さんの行動で理解はしている」


 男は会話をしながら、肉、野菜を鍋に入れていく。

 どうやら彼なりに場を和ませようとしているのだとわかると、エイネはホッと胸をなで下ろした。気がつけば不穏な空気は消えている。


「森の中でお前さんを見つけたときはヒヤッとしたぞ。なんせ体が消えたり戻ったりしていたんだからな。今も魔力結晶と多少の睡眠によりなんとか保っているといったところだろう?」


 否定できなかった。現に今も、体の一部が消えようとしている。先の戦いで魔力を消費しすぎた結果、宣告された余命よりも早まっているのだろう。エイネは唇を結び、膝の上で握り拳を作った。


「今のまま向かってもすぐに消えちまう。それがわからんわけでもあるまい」

「はい、そうですね……すいません」


 エイネはなぜ目の前の男が引き留めたのか理解すると、自分の浅はかさに嫌気がさした。目の前のものしか見えない盲目さが、ソラを救うチャンスを無下にするところだったのだ。

 首から下げた魔力結晶がわずかに光を放つ。その光がすぐに消えたところを見ると、どうやらもう結晶内の魔力も限界が近づいているようだ。エイネは思わずため息を漏らした。


「よし、できたぞ。これを食え。少しは魔力の足しになるだろう」


 そう言って男が器に入れて渡したのは白い色をしたスープだった。


「これは……」

「なんだ? 昨日の晩にでも同じものを食ったか?」

「い、いえ! そういうわけじゃ!」


 間違ってはいなかった。

 ただエイネが思わず声を漏らしたのは、男が作ったスープがどこか独特な雰囲気を放っていたからである。


「ああそうか、匙が無けりゃ食えんか。少し待ってろ」


 食べるのを躊躇う姿を見て、男はそう呟いた。

 ナイフを取り出し、近くにあった小さな木を削り始める。手際よくかつ素早く削って、スプーンの形にしていく。そして息を吹きかけて削りカスを飛ばすと、無言でエイネに渡した。

 即席で作られたスプーンを受け取り、エイネは恐る恐る口に運んでみる。

 味は普通のようだ。そう思った直後、ガリッとなにか硬い物を噛んだ。


「……なにこれ」


 思わずその硬い何かだけを吐き出し、スプーンに乗せてみる。


「あの、これって……」


 怪訝な表情の先に乗っていたのは、白色透明な魔力結晶の破片だった。


「食いもんと一緒にそれを食えば、魔力も十分に補えるだろう。人ならば食えんかもしれんが、使い魔であるお前なら食ってもさして問題はない。いいから食え」

「うう……」


 これでは味もなにもあったもんじゃない。エイネはそう思いながらも、渋々飴を噛むようにして、結晶を噛み砕き飲み込んだ。

 もう一度、スープの中をよく見てみる。肉や野菜といった普通の具材の中に、他にも結晶の破片があるのが見えた。


「どうした? 早く食え。まだ量はあるんだぞ」


 ギョッとして、エイネは鍋の方にも目をやった。ぐつぐつと煮えているスープはまだまだ残っている。


「あ、あの……さすがに私そんなに食べられないんですけど……」

「こんなもの俺の方が食えんだろう。いいから黙って全部食え。残したら承知しねぇぞ」


(こ、こんなの横暴だ!)


 最初は躊躇っていたエイネだったが、男の視線の痛さに耐えられず、もうどうにでもなれとスープをがっついた。

 スープを飲むにはおよそ鳴ることがないであろうガリッ、ガリッといった音が延々と鳴り響く。

 こんな仕打ち今まで受けたことがあっただろうか。涙目になりながらエイネは魔力結晶の入ったスープを食べ進める。


「ほれ、おかわりだ」


 器の中が無くなれば、一杯、二杯とどんどん盛られていく。

 結局、鍋の底が見えるまで食べる羽目になるのであった。





 スープを最後の一杯まで食べ進めたエイネ。お腹はもうはち切れそうなほどに膨らんでいた。

 さすがにこれの二つ前から食べるペースが落ちていた。

 最後の一杯となると、もう手を動かすことも億劫になり、まとも進まない。


「もう無理……食べれない……」


 許容範囲を超える量を食べたため、吐き気もやってきた。

 そもそも使い魔といえど、吸収できる魔力にも限界があるというもの。

 エイネは匙を置き、器をただ見つめるだけとなってしまった。


「まったくだらしない。こんなことであの坊主を助けられると思うのか?」


 それは果たして関係あるだろうか。そう思っても、反論する気力も湧かないエイネ。

 第一こんなことをしている間にもソラの身に危険が迫っているかもしれないのだ。

 今すぐにでも出発したい気持ちが、エイネの中に募り始めていた。


「ところで質問していいか?」


 男がこんなことを言うので、エイネは小首を傾げた。


「あの坊主は、お前が命をかけるだけの価値があるのか?」


 当たり前だ。叫ぶより先に体が動いていた。

 立ち上がったエイネを男は睨み付ける。


「お前にとってあの坊主はなんだ?」


 それは昨晩、ベル婦人にされた質問と同じ内容だった。だから同じ答えをした。


「そんなの決まっています。あの子は私の大切な子、大好きな子。だから命をかけてでも守る価値はあるんです」

「本当にそうか?」

「え?」


 男の問いの意味が分からない。エイネは一瞬言葉を失った。


「お前はただ、自分の幸せがなくなるのが怖いだけじゃないのか?」

「そんなことは――」


 否定しようとして、心のつっかえがそれを拒んだ。


「お前はあの坊主がいなくなることが幸せの喪失だと思っている。また昔みたく不幸な日々を送ることになると考えている。あの坊主の命は二の次で、本当は自分の幸せさえ確保されればどうなっても構わないと思っているんじゃないのか?」


 男の言葉が、エイネの胸を抉るように突き刺さる。


「本当はお前、幸せをくれるなら誰でもいいと思っているんじゃないのか?」


 エイネは黙った。心の声が、どこからか響いてくる。

 そうだ。自分は生まれたときから不幸だった。本当の親に見放され、人から苛まれ、心を壊され、死ぬ寸前に追い詰められて、この世の誰よりも不幸と思えるような人生を送っていた。そんなことを考える余裕さえないほどに、不幸な人生だった。

 しかし今はどうだろう。この上なく幸せだ。ヴェルティナと過ごす時間は幸せだった。ヴェルティナと住む世界は輝きを放っていた。ヴェルティナがいたからこそ、自分は笑って生きていくことができた。

 ヴェルティナがいなくなった後も、ソラと一緒に暮らしていれば幸せだった。幸せな時間が押し寄せるようにやってきた。戸惑うほどに。

 ヴェルティナがいなくなっても幸せに過ごせたのだ、別にソラがいなくなっても自分は幸せに過ごすことができることだろう。


(違う……)


 ヴェルティナがいなくなって、どうしてと泣き叫ぶ日があった。ヴェルティナがいなくなった穴埋めのためにソラを選んだに過ぎない。ソラは所詮、ヴェルティナの代わりとなる存在に過ぎないのだ。そしてソラがいなくなれば、またその代わりを見つけ――。


「それは、絶対に違う!」


 エイネは強い否定とともに、残りのスープ余すことなく食べ尽くした。

 すべて飲み込み、エイネはアウルスを凝視する。その瞳には揺るがぬ信念が垣間見える。


「私は、あの子と一緒だからこそ幸せと思えた。あの子のことが好きだから、いつまでもあの子と一緒にいた。ヴェルティナがいなくなっても、この子とだけはずっと一緒にいたいと願った。だってソラは私にとってかけがえのない――」


(ああ、そっか。私、あの子に)


「――大切な人だから!」


(ソラにいつの間にか、惚れてたんだ)


 エイネはようやく、自分の思いに気がついた。なぜ他の誰でもない、ソラのことを大切に思っていたのかを。なぜソラから離れたくないと思っていたのかを。

 それは至極単純で――しかし最も尊い感情だ。

 アウルスは口元にほんの僅かに笑みを浮かべると、再び睨みを効かせた。


「それはお前の勝手だろう? あの坊主が本当に望んでいるかはわからん」

「それでもいい。私はあの子に生きててほしいから」


 エイネは器と匙を近くのテーブルに置くと、出口へと歩んでいく。

 アウルスはそれを引き留めない。元々彼に引き留める権利も、意思もないのだから。


「行くのか? 言っておくが、お前が食ったもんは一時しのぎのもんでしかねぇぞ。お前を延命できるほどの代物じゃねぇ」

「分かってます。アウルスさん、スープ美味しかったです。今度は魔力結晶無しでお願いしますね」


 アウルスに笑顔を向けると、エイネは外へと飛び出していった。


「今度、か……」


 残されたアウルスは、木の器と匙を手に取る。


「これ以上俺はなにもしてやれんぞ。万が一のため、この森を守らにゃならんからな」


 アウルスが器と匙を虚空に渡すように動かすと、それを受け取る手があった。

 今度は手の主に鋭い眼光を向けるアウルス。その先には、どこからかともなく現れたヴェルティナが立っていた。


「十分よ。ありがとう、アウルス」

「お前さんのこれは、誰のためだ? あの坊主のためか? それとも、あの娘のためか?」

「勿論、どちらのためでもあるわ」


 ヴェルティナは器と匙を眺める。まるで骨董品でも吟味するかのように。しかしすぐに興味を無くしたかのように、それらを暖炉の火に焼べた。


「あの娘はどうなってもいいと?」

「あの子には悪いとは思ってる。でも仕方の無いことよ。それが、彼の意思なのだから」

「本当にそう思っているのか? そこにお前さんの意思は……あるのか?」


 アウルスの問いに、ヴェルティナは笑って答えた。


「おかしなことを言うのね。私はただ、彼の意思に従うだけよ」


 ヴェルティナはこれ以上の会話は必要ないと、立ち去ろうとする。

 それをアウルスは、悲しげな目でただ背を見つめた。


「お前さん、変わってねぇな。いつもそうだ」

「そうかしら。うん、そうかもね。それが私だもの」


 吐き捨てるように言うと、ヴェルティナは外に出る。

 外に出て、彼女は空を見上げた。外はもう薄暗くなり、もうすぐ夜となる。

 星空はどこにも無く、一面に分厚い黒い雲が掛かっている。


「今夜は一際強い雨が降りそうね」


 ヴェルティナは呟くと、忽然と姿を消す。


「あの子の旅立ちのためには、必要な犠牲なのよ」


 彼女の目には、涙が溜まっていた。





 エイネは森の中を全速力で駆けていた。

 魔力を行使し、身体強化の魔法を掛けてひたすらに走った。


(体が軽い……あのスープのおかげ、なのかしらね)


 体中魔力で満たされているのがわかる。これならば、ある程度魔力を酷使しても、すぐに消えるようなことはないだろう。

 それだけではない。体の痛みが嘘のように無くなっていた。腕の傷口も完全に塞がり、包帯の必要もなくなっていた。

 存分に戦うだけの余裕が今はある。どれだけの群勢に囲まれて襲われようと、対処するのにさして苦労することはないはずだ。

 エイネはそう自分を信じ、ソラを救うために走る。

 もしかしたらもう一刻の猶予もないかもしれない。あるいはもう、彼の命は――。


「大丈夫、あの子は生きてる。私が信じなくてどうするのよ」


 揺るがない心が、エイネの中に出来ていた。

 もう迷いはない。ソラの明日のために、大切な人のために、これからも全力を注ごうと。


「それにしてもそっか、私、そっか……」


 それはそれとして、エイネは自分の気持ちに狼狽えていた。無理もないだろう。今まで我が子のように接し、育ててきた少年に対して恋心が芽生えていたとなれば、誰であれそういう気分にもなる。


「でもあの子ほら、確かに今は可愛いなりをしてるけど、将来かっこよくなるかもしれないし? あれでもちゃんと男の子だし? 別に私がおかしいわけじゃないし」


 なぜこんなことを独りでに呟いているのか、エイネ自身にもわからなかった。はじめて恋をする乙女の反応とでも言えばいいのだろうか。ともかく今の彼女は言いようのない感情で一杯になっていた。


「って、何考えてるのよ私。今はそれどころじゃないでしょうが、まったく」


 我ながら呆れると、エイネは嘆く。しかし心は晴れやかだった。

 そうこうしているうちに、ドゥエセの町が見えてきた。

 エイネは真っ正面から行こうとはせず、木々を足場にして、町を囲っている外壁の上に降り立った。


「うげっ」


 町を見下ろして、エイネは思わず不快感をあらわにする。

 彼女の眼下、町の中では、操られた住民たちが唸り声とも呻き声とも判断がつかない声を発しながら彷徨っていた。

 昔見た死人が彷徨っている姿と酷似していることから、ついつい苦い顔をしてしまったのだ。


「早くこの人たちも解放してあげなきゃね」


 そのためにも一刻も早く、あの術者である男を見つけなければならない。

 エイネは意を決し、眼下に見える屋根に向けて飛び降りた。

 まずはあの笛を吹いていたところに向かおう。

 着地してすぐに屋根を走り、跳躍して隣の家屋に移りを繰り返し、目的地へと走った。


「あそこが最初の現場……よね」


 エイネは、笛の演奏が行われた建物が見えるところまでやってきた。

 エイネが開けた穴はまだ痛々しく残っているが、見たところ人の気配は一切ない。

 となると、別の場所ということになる。


「他に考えられる場所は……」


 エイネは必死に町のありとあらゆる場所を走った。

 しかし、そもそもあの男がどこに潜伏しているかの情報が一切ない。ただ体力を消耗するばかりだ。町の人間に思い当たる場所がないかと聞こうにも、あの状態ではとても聞けるはずもない。

 それでもエイネは走った。

 僅かな違いでもなんでも、見落とさないよう、目を凝らし、見渡しながら。


「くそ……一体どこなのよ……」


 息を切らし、堪らず苦言を漏らすエイネ。

 空はすっかり暗くなり、夜になっていた。

 これでは時間もただ費やすだけではないか。そう思った時だった。


「ん? あれは……」


 ふと、一軒の家の扉が開くのを、エイネは見逃さなかった。

 開いた扉から子供たちが逃げるようにして一斉に飛び出している。


「……見つけた。けどなんで」


 なぜと考えて、すぐに答えに行き着いた。

 エイネは口元を緩ませる。


「そういえばあの子、前から妙にかっこよかったわよね」


 エイネは、ふぅと一度深呼吸した。目を閉じ、少し乱れた呼吸を整える。

 そして一気に目を大きく見開き、屋根を強く蹴って一直線に跳んだ。

 距離が足りず、そのまま地面に着地する。目の前には町人の群勢だ。存在に気づき、こちらを見ている。

 エイネは構うことなく大地を蹴り、まるで疾風のごとき速さで、さらなる加速をしながら、見つけた目的地へと駆け抜けた。その速さは、誰の目にも止まることはない。

 彷徨う住人の合間を縫うようにして抜け、子供たちの逃げる姿を横目に、その住居へと飛び込んだ。


「今のは……?」


 すれ違った少女が、風が通り抜けるのを感じ、声を漏らす。何も見えなかった。だが確かに何かが通ったのを、少女は感じていた。


 階段を駆け下りたエイネは、地下の薄暗い通路を走った。

 途中途中、光が漏れている部屋があったが無視した。

 彼女は直感で感じていた。ソラがいるのは、この地下の最奥だ。そしてそこには、あの笛吹きの男も一緒にいるのだと。

 目前に通路の曲がり角が見えてきた。

 エイネはこれを減速することなく、むしろ加速して壁を走り、天井を走り、また壁を走り、そして元の地面にという形で曲がった。速度を落とす、などという考えは一切浮かばない。

 他の曲がり角も同様にして曲がり、ついに目標を捉えた。


(――っ! 見えた!!)


 視線の先に、男の姿が見える。

 男が何かを言っているがそんなことはどうでもいい。見たところ、笛を吹こうとしている。おそらくは、逃げ出した子供たちを戻すためであろう。


(そんなこと、させるもんですか)


 きっとあの子供たちは、ソラが身を挺して逃がしたのだろう。その行動を、勇気を、功績を、絶対に無駄にしてなるものか。エイネは歯を食い縛る。

 走りながら、拳を作った。強く、強く握った。今までに込めたことのない力を、一杯に込めて作った拳だ。そこにはこれまでの色々な思いも込められている。中には一人の少女の、大切な人への強い思いも。


「よくも私の大切な人を傷つけてくれたわね」


 それを使い魔エイネは、これまでの速度を保ったまま、ただ真っ直ぐに、男の顔面目掛けて打ち放った。


「ぐぼぁあっ!?」


 強い衝撃が、空気の振動とともに走った。

 衝撃に耐えられなかった男の口からは、情けない悲鳴とともに血が飛び散る。

 吹っ飛んだ体が、見事扉の開いた牢屋の中に入っていく。

 手元にあった笛は離れ、体とともに宙を舞った。

 男は何が起きたのか、自分の身に一体何が降りかかったのか、理解が追いつかなかった。

 男は勢いを保ったまま、牢屋内の壁に強く打ちつけられた。


「ぐあ……あがっ……」


 折れた歯からも大量の血が噴き出す。

 男は揺れる視界で、少女の顔を見た。失念していた少女の顔を。


「この……くそ……が……」


 精一杯に毒を吐く男。しかし堪えることができず、吐き終わるより先に意識を失った。

 拳を握った少女は、気絶した男に吐き捨てるように言い放つ。


「悪いけど、私の大切な人は返してもらうわよ」


 宣言とともに、エイネは落ちた笛を足で破壊した。


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