4
「た、ただいまー」
「はい、おかえり」
家に戻ってきた二人の体はずぶ濡れだった。
あまりもの心地よさに眠ってしまったソラが起きるまでに掛かった時間は一時間。
その間ずっとエイネはソラの頭を自分の太腿の上に乗せて座っていたわけで、当然彼女の足は痺れてしばらくは使いものにならなくなったのだ。
そしてエイネの足が回復して帰路に着くころ、突然天候が変わり土砂降りの雨となったため慌てて帰ってきたのだった。
肩で息をしながら、ソラはエイネを見る。エイネの体には濡れた服が張り付いていて、実に艶めかしい。生唾を飲み込み、ソラは目をそらした。
「すぐお風呂の準備するから待ってて」
そうとは知らずにエイネは浴室の方へ歩いていく。
浴室の前で立ち止まり、エイネはふと床を見た。水浸しになった靴と、服から滴る水のせいで床も濡れてしまっている。それだけならいいが、所々に泥が靴跡を作っていた。
(ああ、また掃除しないと……)
思わず肩を落とすと、エイネは靴を脱いで浴室に入った。
浴室には浴槽と、水を溜めるための大きな桶が設けられている。内桶の方には大量の水が入っていた。エイネはそこから小さな桶を使って水を掬い、浴槽の方へ流し入れる作業をする。
ある程度水を張ったら今度は浴室の前の小さなテーブルに置かれている赤い結晶体を手に取った。エイネが身に着けている物と同様〝魔力結晶〟だ。
しかし、エイネのものとは違い、こちらは赤色。これは魔力結晶の中でも少し特殊で、魔力を込めると一定時間熱反応を起こす。
別名〝熱結晶〟とも呼ばれており、一般家庭で多量の湯を沸かす際に用いられるものだ。
この熱結晶にエイネは少しの魔力を流した。すると赤い結晶が発光し、熱を発し始める。しばらくすれば触れることも出来ない程の熱さになるため、エイネはそうなる前に水の中に結晶を放り込んだ。
仕上げに、傍にあった小さな筒を出し、中にある粉を水の中にいれる。この粉は熱に反応して白くなる特性がある。熱に反応した粉は、より体を温めるだけでなく、疲労回復の効果、さらには魔力の回復を促すこともできる。
「これでよしっと」
不意に、エイネは頭に触れた。そこにはソラが作った花冠が乗っている。
それを手に取り視界に持ってくると、彼女は落胆する。というのも、ソラが作った花冠は土砂降りの雨に打たれたためか、形が崩れていたからである。
「うっ……ぐぅ……!?」
花冠を眺めていると、突然エイネの頭に言いようのない痛みが走った。足がふらついて立っていられず、その場に頽れる。
(そんな……!? まだ少ししか魔力を使ってないのに……!)
左手で頭を抑えながら、右手を見る。右手が小さな粒子を出しながら、輪郭が消えようとしている。右手だけでなく、彼女の全身が同様の現象を起こしていた。
エイネは自分の体を抱えるようにして蹲った。
「ダメ……っ! お願いだから、まだ消えないで……っ!」
掠れた声で必死に自分の存在を保とうとする。消えたくないという、その一心で。
エイネの思いに呼応するかのように、彼女の胸に付けていた魔力結晶が淡い光を放つ。魔力結晶が、その身に宿す魔力を注いでいるのだ。
浴槽から湯煙が上がった頃、エイネの体は元通りになっていた。
肩で息をしながら立ち上がり、ふらつく足で体を支える。
(私はもう……長くないのかな?)
エイネの視線は地面に向いた。花冠が落ちた衝撃でバラバラになっている。
崩れた花たちを拾っていると、エイネの頬を涙が伝った。
「あれ……なんで泣いてるんだろ?」
涙を拭って笑おうとする。が笑うことは出来ず、溢れ出る涙を止めることも出来ない。叫びそうになる声を押し殺し、唇を強く噛み締めて、花を拾う。
「嫌だよ……消えたくないよ……!」
切なる願いを吐露して、エイネは拾った花たちを抱きしめるように蹲った。
丁度その時、ソラが浴室の中に入ってきた。部屋の戸を開けた瞬間、立ち込めていた湯気が外へと逃げていく。
「エイネー、なんかベルさんがってどうしたの!?」
ソラはエイネの姿を見て思わず叫んだ。
「ぁ……ソラ……?」
その声で漸くソラの存在に気づいたエイネ。何かを問われるよりも先に彼を引き寄せ、顔を彼の腹の辺りに埋めた。
「エイネ……?」
「ごめん……ちょっとこのままで居させて……」
泣いているのがすぐに分かった。ソラは何も言わずそっとエイネの頭を撫で、優しく微笑んだ。
しばらくして、エイネは顔を上げた。恥ずかしさから顔を真っ赤にしている。
「えと、ありがと」
頬を掻きながら、苦笑気味に感謝する。まさかあそこまで取り乱すとは思ってなかった。そう内心で呟きながら。
一方のソラはにこやかな顔で「気にしなくていいよ」と答える。
(それにしてもこの子、本当に成長が早いわよね)
ソラの心の成長はとても早かった。勿論子どもらしい一面の方が多いが、誰かを思いやる時の彼は誰よりも大きく見える。
「もしまた泣きたくなったら言ってね? 傍にいてあげるから」
「泣かないわよもう。ちょっと弱い所見せたら調子に乗って」
赤くなった頬を膨らませて、エイネは顔を反らす。
「でも本当に、何か辛いことがあったら言って? ボクたち家族でしょ?」
家族。その言葉がエイネの心をくすぐった。思わず頬が緩む。
「だからエイネのことはボクが守ってあげる!」
「もう、生意気なんだから」
「いいわねー。二人ともいい雰囲気」
「別によくないですよ……ってなんでいるんですかベルさん」
いつの間にか、ベル婦人が浴室の入り口に立っていた。そう言えばベルさんがどうのとソラが言っていた気がする。思い出し、エイネは頭を抱えた。
「今日はやたら家に来ますね」
「本当は毎日来たいのよ?」
「本当も何も、毎日来てるじゃないですか」
エイネの受け答えに「あら、そうだったかしらー?」と恍ける婦人。それを聞いてエイネは溜息を漏らした。
「あまりそう溜息ばかり吐いてると、幸せが逃げちゃうわよ?」
「誰のせいで溜息が出てると思っているんですか」
「それは、私のせい?」
「自覚があるなら少しは遠慮してくださいよ」
呆れて項垂れるエイネを他所に、婦人は周囲を見渡した。
「お風呂に入るつもりだったの?」
「ええ、まあ。帰ってくる時に雨に濡れたので」
「ああ、急だったものねぇ」
そう言って婦人は浴槽の湯に指を入れた。
「でももう冷たくなっているわ」
その言葉に「えっ?」と反応すると、エイネも浴槽に指を入れる。婦人の言う通り熱を失っていた。
「せっかくだし、三人で入りましょう?」
「なんですか急に」
「いや、私も雨に濡れたのよ。だから、ね?」
見てみると確かに、髪の毛先から水が滴り落ちていた。服がなんともないというのは少し気に掛かるが、雨に濡れたというのは確かなようだ。
エイネは少し考える。今から温かい湯に戻すにも、また熱結晶に魔力を込めなければならない。そうなれば次こそ、体が消えてしまう恐れがある。
風呂に入らないという選択肢もあるが、ソラのことを考えれば取りたくはない。
「でも三人一緒には無理だと思うんですけど」
エイネの指摘に、ソラは三度首を縦に振る。というのも、さすがに女性二人に囲まれての入浴はなんだか恥ずかしいというか、例えようのない気持ちがソラにはあるのだが。
一方の婦人はというとーー。
「大丈夫よ。屋敷のお風呂なら三人で入れるから」
二人の意見を聞く耳など持っていなかった。
「ね? ね? 入りましょう?」
ぐいぐいとエイネの顔に近づいていく婦人。
「わ、わかりました。わかりましたから」
危うく唇と唇とがくっ付きそうな程まで近づかれ、エイネは頬を少し赤らめつつ承諾する。
すると婦人は飛び上がるように喜び、「じゃあ先に帰って用意してるわ!」と言って一目散に去っていった。
「まるで嵐のようね」
エイネは思わずそう呟くと、ソラも「うん」と苦笑した。
二人は顔を見合わせた。二人とも似た表情で顔を引きつっている。それが可笑しくて、二人は同時に笑い出した。
「まあ、お言葉に甘えましょうか」
二人は手を繋ぐと、浴室を後にした。このとき浴槽に沈んでいた熱結晶は、淡く青い光を放っていたのだった。
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