もう少しでお昼時という頃。エイネは昼食の入った小さな荷車を引きながら、ソラはエイネのの右手を引きながら村の南西に広がる森の中を進んでいた。木々が多く、天然のアーチを作っているため、あまり日差しの入らない森だ。大した広さは無いが、それでも抜けるためにはそれなりの時間を歩かなければならない。

 森を抜けた先には広大な草原がある。その先にあるのは数日前にソラが一人見つけた場所で、それ以降「一緒に行きたい」と彼がずっと口語していた。


 だからだろう。その思いが叶い、ソラはいつになく上機嫌であった。エイネの手を握りながら、鼻唄混じりに軽快なスキップをしている。


「フフフ、なんだか嬉しそうね」

「うん! だってエイネとピクニックなんて久しぶりだもん!」

「そう。そうよね。私も嬉しいわ」


 エイネは普段、村を出ることがない。出ることがあっても、北東の森を進んだ先にある町ドゥエセに買い物へ出掛けるくらいだ。

 ソラも大きくなり、大抵は村の住人たちの手伝いをしている。そのため、あまりソラと出掛けるということが出来ずにいた。

 故にエイネも、今日という日を楽しみにしていた。寝起きの弱さから忘れるという愚行を犯したが、これからその挽回をしよう。

 とも考えているが、それ以上にエイネはソラと過ごす時間が何よりも幸せだった。こうして手を繋ぎ歩いている間も、幸せと言う思いで溢れ返りそうになっている。


「あ、そろそろ抜けるよ!」


 ソラが指をさした。彼の言う通り、指した方向には明るい陽射しが差し込み、木々の列も途切れている。

 木々のアーチを抜けると、草原からそよ風が吹く。草たちが揺れ、二人を歓迎しているかのようだ。


「気持ちいい風……」


 エイネは立ち止まって、思わず目を細めた。

 風がエイネの髪を靡かせる。太陽の光が、煌めく白銀をより一層輝かせた。

 そしてそれは、ソラが見惚れるに十分であった。ソラはエイネ以上の美人を知らない。ベル婦人も美しい女性だが、ソラの目にはエイネが一番に映っていた。

 そういう日ごろの目と、変に意識していることもあって、彼の胸は大きな騒ぎを起こしている。今にもはち切れんばかりに、高鳴りは最高潮に達そうとしていた。

 そんなソラの思いなど知らず、見惚れている姿にエイネは首を傾げた。


「ん? どうかした?」

「え? あ、えっと……エイネが綺麗だなって……」


 顔を真っ赤にして、ソラが俯く。


「……っ、そう?」

「うん、すごく綺麗」

「えと、ありがとう」


 エイネも少し頬を染めて、目を反らした。

 沈黙が二人の間に流れる。あるのは風が草木を揺らす音と、小鳥が囀る音だけ。二人を邪魔するものは、何一つない。


「う……」


 突然、エイネが呻くように短く何かを呟いた。


「う……?」


 ソラもそれに反応し、思わず顔を上げてエイネを見る。

 エイネの体が震えていた。泣いているわけではなく、かと言って怒っているわけでもない。ただ何かを我慢するように、エイネは体を震わせていた。


「どうしたの? エイ――」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないのよ、もぉー!」


 ソラが名前を言い終えるより先に、エイネはソラに飛びついた。「ぐえっ」と苦悶の声を上げるソラを構うことなく強く抱きしめ、その顔に頬擦りする。


「ああ、もう! 可愛すぎなのよ!」

「ちょ、痛い、痛いよエイネ!」

「あ、ごめん。でもやっぱりもうちょっと!」

「あー、もー、やぁー!」


 ソラは必死に抵抗し、身を捩じらせた。別に嫌いというわけではなく、むしろエイネに抱き付かれるのは好きなのだが、さすがに今の心境では良しとしない。エイネに一抹の反抗心が芽生えていた。

 が、抵抗も空しく、ソラは容易く抱き上げられる。その結果、先ほど見惚れていた顔がすぐ目の前にまで来た。


「ちょ、ちょっと……ボクはもう子供じゃ……」

「まだまだ子供よ。それともいやだった?」

「い、いやじゃないけど……むぅ……」


 頬を膨らませ、しかしその頬は赤く染まりながら、ソラは視線を反らす。

 その仕草はエイネにとって〝可愛いもの〟としか映らず、膨張した感情を抑えきれずにそっと愛するソラの頬に口づけした。


「……っ!?」

「ふふふ、じゃあこのまま行きましょうか」


 エイネはソラを抱き上げたまま、草原を歩き始めた。


「ねぇ、どっちに進めばいい?」

「……あっち。あっちの丘の方」

「了解しました、私の王子様」


 くすくすと悪戯な笑みを浮かべると、ソラが指し示した方向へエイネは歩きだす。それを後押しするかのように、彼女の背中をそよ風が流れる。

 風には人一人、今の場合は二人を引くほどの力は無いが、エイネにとって風もまた移動を急かしているかのように思えた。きっとそれだけの光景がこの先に待っているのだろうと、期待した。

 少しして、二人は目的地に到着した。


「凄い、綺麗」


 エイネはそこに広がっていた光景を見て、感嘆を漏らす。

 辺り一面、これでもかと花が咲いていた。風に揺られて踊り、燦々と照らす太陽の光を浴びて輝く花が。あのベル婦人の花畑に引けを取らない、或はそれ以上の光景だ。

 ソラもまた、花咲き乱れる草原に目を奪われていた。以前見たとき以上のものが、彼の目に焼き付けられていく。理由はーーこの世で最も大好きなエイネとともに見ることが出来たからーーに他ならない。


「こんなところがあったなんて知らなかった」


 長い間用もなく村の外に出ることが無かったエイネは目を輝かせる。


「ねぇ、エイネ」

「あ、うん?」

「一緒にここに来れて、良かった」

「……うん、私もよ」


 二人は顔を見合わせて笑った。普段から一緒にいる彼らだが、このときの感情はいつも以上に特別なもの。改めて、お互いが相手のことを〝好き〟だと認識する瞬間であった。

 その直後、ぐぅと間の抜けた音が、ソラのお腹から聞こえてきた。その大きさは話していても聞こえそうなほどで、エイネが吹き出してしまうのも無理はない。ソラは恥ずかしそうに頬を染めた。


「ご飯、食べましょうか」

「うん。えへへ」


 エイネはソラをそっと下ろすと、持ってきた敷物を草の上に広げる。それから荷車から昼食のサンドイッチが入ったバスケット、ベル婦人から貰ったりんごのジュース、そしてコップを出し敷物の上に置いた。


「はい、準備できた」


 敷物の上に座った二人は、早速サンドイッチを手に取り、口に入れた。

 食べた瞬間、ソラは唸るような声とともに顔を綻ばせる。口に広がる味が、彼にいつも以上の至福を与えている。


「美味しい?」

「うん、すっごく!」


 そんな嬉しそうな顔をされては、エイネも喜ばずにはいられない。彼女の顔もまた自然と緩み、笑っている。

 彼らを邪魔するもの何もない。あるのは豊かで美しい自然だけ。

 ここにいるのは、一人の少年と一人の少女だ。第三者から見れば、二人はただの友人同士にしか映らないだろう。だが二人の間には、例え血が繋がっていなくとも確かなる〝親子の絆〟があった。


 食事を終えたソラは、エイネの傍から離れて、咲き乱れる花たちの中にいた。身を低くして、花たちを踏まないよう気を配りながら、目の前で観察する。

 間近で見れば見る程、花の美しさ、鮮やかさに心奪われる彼は、あることを考えていた。エイネに日頃の感謝を込めて、何かを贈りたいと。が、ここにあるのは花だけで他に何もない。それに。


(なんだろう。エイネ、少し元気がない気がする)


 不意に、風が吹いた。心地のよい風に煽られ、花が身を揺らす。


「え? 私たちを使ってほしい?」


 突然ソラが不可思議なことを呟いた。花と話すかのように、彼女たちを見つめている。


「いいの? でも……」


 再び風が吹いた。同様に花が身を揺らして、ソラの体に触れる。


「……ありがとう」


 ソラは微笑むと、小さな手で優しく花を摘み取った。この一本を渡せば、エイネは喜んでくれるだろうか。ソラは振り向いて、エイネの方に向かおうとした。

 一つ、強い風が吹いた。思わずソラは花の方に向き直る。周囲の花たちが、大きく身を揺らした。

 ソラは目を瞬かせ、すぐに微笑んだ。


「うん、ありがとう」


 一方、エイネは遠くから花を摘むソラの姿を眺めていた。遠目では特になにもない光景だが、エイネの目には別に映っていた。


〝――あの子は、本当に不思議な子。ただ花たちの中にいるだけなのに、まるで花たちと遊んでいるみたい〟


 我ながらおかしな感性だと思いながらも、エイネはそのことを拭えずにいた。どれだけ一緒にいようと、それは変わらない。むしろ一緒に時を過ごせば過ごすほど、ソラの不思議な魅力に心を惹かれていた。それが〝親心〟とは違うものとは知らずに。

 エイネは幸せだった。ソラと過ごせるだけで、彼女は自分が世界で一番幸せだと感じるのだ。こんな日々がずっと続けばいい。ずっとずっと、ソラと居られればいい。それが最上の幸福で、何ものにも侵して欲しくない時間。


(でもいつまでも一緒には……居られないのよね)


 自分の手のひらを見つめ、エイネは深く溜息を吐く。その時、ほんの一瞬、彼女の手のひらが透明になった。

 彼女の時間は有限だ。しばらくすれば、ソラとの別れが来る。それが、抗うことの出来ない運命であると、知っている。彼女は人ではない。人によって生み出された〝使い魔〟なのだから。

 だが些細な問題だった。当の昔から、ソラを育てることになってから既に決まっていたことだ。覚悟はできている。エイネはきっと、潔い別れを告げることだろう。


(でも出来ることなら……)


 ため息混じりに空を見上げる。青く澄み切った空だ。ソラの青い髪を連想させる、とても綺麗な。


「エイネ、エイネ!」

「ん、なぁに?」


 呼びかけに応じると、エイネは顔をソラに向け、小首を傾げた。後ろでに何かを隠している。そう取れるような姿勢でソラが立っている。


「あのね、エイネにいつもお世話になってるから、これプレゼント!」


 満面の笑顔でソラは隠していた物を前に出した。彼の手には、花を編んで作られた冠あった。


「これを……私に?」


 思わず目を丸くして見つめる。そんなエイネの姿が可笑しくて、ソラは微笑する。

 エイネは未だに状況を飲み込めていなかった。丸くした目のまま冠を見る。鮮やかな花たちの輪が、吹いた風により僅かに揺れる。


「もう、どうしたのさ。そんな顔して」

「いや、だって……その……」


 上手く言えない喜びが、エイネの胸の中を渦巻く。ありたっけの気持ちが込められているのが一目で分かるそれは、彼女が生きてきた中で初めての物だった。ソラにプレゼントしたことはあれど、されたことはこれまでに無かったのだ。

 故に嬉しさの余り、今にも泣きそうになっていた。目が潤み、視界がぼやける。零れそうで零れない涙が、目尻に溜まっていく。


「えっ? あ、あの、嫌だった?」


 顔を見て、戸惑いを見せるソラ。目が泳いでいることから、どれだけ動揺しているのかが伺える。

 一方のエイネは、必死に涙を堪えていた。この場所に連れてきてくれただけでも最上の贈り物であるのに、花冠まで作って渡されては、堪えようのない何かが込み上げてくる。それは全て、喜び以外の何もでもない。


「ううん。ありがとう、ソラ」


 エイネは浮かんできた涙を拭き、笑った。花冠を手に取り、そっと頭の上に乗せる。


「どう? 似合う?」


 丁度その時、風が吹いた。輪の中の花が僅かに揺れる。輝く白銀の髪が靡いて舞う。そんな光景に、ソラはまたしても見惚れた。このときのエイネの美しさは、この世の何にも勝っている。そう彼は感じた。


「うん……」


 エイネは、ソラの体を抱き締めた。ソラの感触を噛み締めるように、強く、強く抱き締める。


「え、エイネ?」

「ソラ、本当にいい子。大好きよ」

「……うん。ボクもエイネのこと、大好きだから」


 ソラは微笑むと、両手をエイネの背中に回した。お互いにお互いの温もりを感じる。消えることのない、確かな温もりを。


 そんな二人のことを、遠くから見つめる者がいた。ソラの母親であり、エイネの主であるヴェルティナだ。


「まるで、本当の親子ね」


 悲しみの混じった顔で、二人を見守る。もしもあそこに自分がいられたのなら、一体どれだけ幸福を感じられたのだろうかと。

 だが、ヴェルティナはあの中に混じろうとはしなかった。出来なかった。あの中に自分がいてはいけないのだ。あの二人の間に、自分はいるべきではないのだ。まるで呪うかのように言い聞かせ、彼女は姿を消した。


 そのことに気づくことなく、ソラとエイネは暫くの間、抱き締め合った。体を離すと、二人は顔を見つめ合う。どちらの頬も、紅に染まっている。


「これからもずっと、一緒にいようね……エイネ」

「うん、ずっと、ずっと一緒よ」


 このときエイネは、自分がソラに対しどんな思いを抱いているのかを気づいていなかった。それが彼女が初めて抱く〝恋〟と知るのは、少し先のことである。


「ねぇ、エイネ。ちょっと横になってもいい?」

「もう、甘えん坊さん。うん、いいわよ」


 エイネの言葉に反感を抱くことなく、ソラは彼女の太腿の上に横になった。

 澄み切った綺麗な空気。草原を吹き抜ける風。温かな陽射し。すべて肌で感じるだけで心地良い気分になり、ソラはいつしか目を閉じて寝息を立てていた。

 眠る前に彼が目にしたのは、何の変哲もない澄み切った青い空と、その手前に映るエイネの笑顔だった。



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