ヘルメット

蛙鳴未明

ヘルメット

 小ぢんまりとした家の前に奇妙な男が立った。首から下はスーツで決め、一見ただのセールスマンのようである。問題は首から上、彼はまるで宇宙飛行士が被っているような緑がかった透明なヘルメットを身に着けていた。しかもそんな珍妙な格好をしておいて、彼はまるっきり常人の笑みを浮かべている。彼はいかにも普通のセールスマン風にインターホンを押した。まもなくして声が流れる。


『はい、どちら様でしょう』


「わたくし、空気プロジェクトの者です。この度は新型の空気清浄機についてお話させていただきたくお邪魔させていただきました」


『空気清浄機っ!?どうぞどうぞお入りください』


 上ずった声とともに空気が抜けるような音がして重々しく扉が開く。小さなスペースを開けて、その奥にはまた扉。男は何ら不思議がることなく小さなスペースに入る。また空気が抜けるような音がして扉が閉まり、


『浄化を開始します』


 機械音声が流れた直後、四方八方から暴風が男に吹き付けた。


『浄化完了』


 数秒後、機械音声とともに暴風が止まる。男がスーツを整えている間にまた空気が抜けるような音がして、目の前の扉が横に開いた。現れた奥さんに、男は深くお辞儀する。


「この度は話を――」


「そんなのどうでもいいの。空気清浄機でしょ?早く見せて」


 男はヘルメットの奥で苦笑い


「まあまあ落ち着いてください。新製品というのは……こちらでございます」


 彼はヘルメットを軽く叩いてみせた。奥さんはいぶかしげにそれを見る。


「それが?」


「はい。ご存じの通り近頃はエビルノ酸塩がはびこっており、外を歩くのもはばかられる状況です。いつどこでエビルノ酸塩を吸って寿命が縮んでしまうかもしれないから、お子さんを外で遊ばせてあげることもできない……」


「ええ、ほんとに……」


 奥さんは深くため息を吐いた。男がちょっと身を乗り出しヘルメットを再び叩く。


「そ、こ、で!こちらの新型空気清浄ヘルメットでございます!なんとこちらのヘルメット、この緑色のフィルムに付着したエビルノ酸塩やその他の有害物質を分解し、安全な物質に変えることができるんです!」


「ほんとに!?」


「ええ!さらにこのヘルメット、付着した菌を100%滅菌することができ、また自ら呼吸して新鮮な空気を取り入れ、余計な気体を追い出してヘルメット内の成分を窒素と酸素だけに保つことができるんです!充電も電池も必要なし!お望みなら一生被っていても問題ございません!」


 奥さん、感激で口を押え、目を潤ませている。


「こんな夢の機械……あったんですね……」


 男はさらに身を乗り出して


「どうされますか?多少お値段は張ってしまうんですが……」


「買います!やっと子供を遊ばせられる……」


「お買い上げありがとうございます!では着払いで商品のほう、送らせていただきます……それでは失礼いたします」


 男は二重の扉を通り、にこにこと次の営業先へと去っていった。社会不安が広がるこのご時世、次の家でも、その次の家でも売れたことは言うまでもない。


 空気清浄ヘルメットは文字通り飛ぶように売れた。老いも若きも猫も杓子も買い求め、ヘルメットを被るのがファッショントレンドにすらなった。いつしかヘルメットは海外にまで進出し、世界の大半の人々がヘルメットを被るようになった。そんな時でもかたくなにヘルメットを被ろうとしない人もいて……



「じいちゃん、まだヘルメットつけてないの?」


 若者が呆れたように言うと、老人はうっとうしそうに、投げ置かれたヘルメットを見やった。


「わしゃ窮屈なのは嫌いなんじゃ。」


「全然窮屈なんかじゃないよ。内部の空気は常に循環してるし……」


「循環してるしてないの問題じゃない。直接空気を吸えないのが嫌なんじゃ」


「でも、直接吸ってたりなんかしたらエビルノ酸塩ですぐに死んじゃうよ?」


 心配そうに自分を見る若者をいまいましそうに見る老人。


「だいたいわしは、あの空気プロジェクトなんぞという会社がどうも好かん。狂ったようにエビルノ酸塩エビルノ酸塩……ヘルメットヘルメット……あるかも効くかもわからんもんを声高に……」


「でもヘルメットの除菌作用は証明されてるよ」


「エビルノ酸塩はどうなんじゃ。ヘルメットにしたって奴らの電波で動いとる。奴らがちょっとピッとしたら除菌作用なんてすぐ吹き飛ぶぞ」


 若者のため息、老人の荒い息。


「おじいちゃん……」


「何を言われようとわしはヘルメットなんぞ絶対に被らんからな」



 ……こんな人もいるにはいたが、ごく少数であり、彼らの主張は陰謀論として片づけられた。エビルノ酸塩は無かったが、そのうちにヘルメットを被るのは社会的常識となり、ヘルメットを被っていても過ごしやすいように広々とした施設が普通となり、乳幼児用のヘルメットまで開発された。数十年の内に九割九分九厘の人々はヘルメットを被るようになり、空気プロジェクトは世界一の大企業となった……そんな折、である。


 空気プロジェクト本社、数十年間開けられていなかったヘルメット制御室がメンテナンスのため開かれた。もちろん業者たちもヘルメットを被っている。それがあだとなった。ヘルメット普及前に作られた制御室は、ヘルメットを被っている者が動きまわるには狭すぎた。一人の作業員が頭を上げた時、ヘルメットが真っ赤なレバーに当たってしまった。ピッ、となってしまった。即座に作業員達のヘルメットが呼吸をやめた。


 真っ赤なレバーは折れてしまっていた。


 数分後には、制御室に動かなくなった作業員達が転がっていた。


 その数分後には、世界中でヘルメットが呼吸を止めてしまっていた。


 その数分後には、世界中で人間が呼吸を止めていた。


 その数分後には、ヘルメットを外し外された人々が息を吹き返していた。


 彼らはヘルメットへの怒りをそのまま空気プロジェクトにぶつけた。数日後、空気プロジェクト本社は瞬く間に炎に包まれ、灰と化した。これで終わり、だと残された人々は思い、ヘルメットなしの新生活を始めようとしていた。が、その数日後、彼らは一斉に体の不調を感じ始める。


 胸が痛い、腹が痛い、咳が出る、くらくらする、などなど他多数。いくら苦しみを訴えようとも、それを助けてくれる人はいなかった。長年の滅菌生活で、医者はとっくのとうに廃業していたのである。


 そうして一人、また一人と倒れていった。かつては大したことはなかった菌が、次々と人を殺していく。そして二月の内に、人類の生き残りは百を超えた老人一人だけになった。


「……水清ければ魚棲まずってな」


 誰もいなくなった病院で、老人は一人杯を傾けた。視線の先には、体中にキノコを生やして死んでいる彼の孫。まだ温かい。老人はまた杯を傾けようとして、その力がもう残っていないことに気づいた。


「だあから言ったのに……」


 哀しげに言って目を閉じる。数秒後には、最後の命の火が消えていた。

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