真夏の桜
彩鶴
第1話
【懐かしの】
見慣れないようで、俺のよく知っている
彩やかな桜色の自転車が、曲がり角から飛び出してきた。白地に紺の三本線を付けたセーラー服を見に纏い、青いリボンの付いた靴下に茶色く光るローファーを履く姿は昔と変わらないお嬢様のような佇まいを保っている。
向かいにはおそらく同じ学校の友達がいるようで、小さく手を振りながらおはよう待った?なんて訊いている。硝子のようにどこまでも透明で、それでいて鈴の鳴るような凛とした声が朝の街を洗っていく。俺の心も軽やかに洗われる。
声をかけようか、にわかに悩んで、けっきょく俺は彼女をぶっきらぼうに追い抜かす姿勢になってしまう。急いでいるわけではない。家を出た時刻からして、確実に始業時刻には間に合うはずなのだ。それなのに熱中症になってしまいそうな勢いで必死にペダルを漕いでいく。勢いそのままに橋を渡る。坂をくだりながら不意に後ろを見てみる。見なきゃ良かったと、強くつよく思う。アーチの橋を登りきった反動にプラスされて、強烈な火照りが頬を襲う。やっぱり、ダメだ。彼女は友達と話したりしながら半分巫山戯るように脚を開いて橋をくだってくる。風を受けて車ヒダのスカートがふわりと膨らむ。彼女の白い白い素足を夏の強烈な日差しが浮き立たせる。スカートを咄嗟に押さえて彼女の笑顔が弾ける。ころころと笑い声をあげながら、きゃいきゃいとはしゃぎあう。俺の目に入ったのはスカートが膨らんで太ももがちらりと覗いたその一瞬だけだったけれど、不可抗力で澄まされた鼓膜には彼女の息づかいすら聞こえそうで、彼女の笑顔や笑い声、仕草さえ想像出来てしまう。
やっばいな。感情はそれだけだ。全ての思考回路がキャパオーバーしてフリーズしてシャットダウンされたみたいだ。語彙力もまとめて汗に流れていく。まだ8時過ぎなのに、青空、入道雲とセミは平常運転。今日は英単語の小テストがあったっけ。それとも古文単語だったっけ。体育はサッカーかな、確か俺今日は日直だった気がするな。化学の実験の片付けとかパシられたらやだな。
必死にどうでもいいことを考えて頭を埋める。知りもしない、いつも勉強することのない英単語を並べてみる。日直日誌の場所や特別教室の鍵の位置を思い出してみる。ああ、やっぱダメだ。
彼女が、彼女の笑顔が、軽やかな声が、この世に存在し得る限りの清楚さを詰め込んだような華奢なうしろ姿が、英単語の1文字ひと文字の隙間からじわじわ滲み出してくる。
そっと、緻密なガラス細工を触るような速度で、撚り糸の繊維の1本をなでるような気の配りかたで、眠ったばかりの赤子にキスを落とすような慎重さで、もう一度後ろを見る。
彼女らはいなかった。そこから跡形もなく消えていた。気づけば彼女の風鈴のような声の残響は消えていて、セミのうざったい声が乱暴に鼓膜を刺してくる。首の後ろを、驚くほど熱い汗がどろりと流れる。鼓動が、馬鹿みたいに大きい。脳と心臓が入れ替わったみたいに、頭の中がドクドクと波打っている。
ほう、と、息が漏れる。危なかった。これ以上彼女の存在を感じてしまえば、身体中の血管やら神経やら感情やらがまとめて破裂してしまうところだった。さあ、もう肩の力は抜いていいから、体力を保ちながらゆっくり漕いでいけばいいさ。
と。、全身が総毛立った。鳥肌がみるみる素肌を染めていく。はわわ、と思わず声が漏れる。
すぐそこに、彼女がいた。何故?止まってしまった思考回路を無理矢理働かせて、俺は必死に考える。
俺は橋を渡ってから、真っ直ぐ県道を走ってこの国道に繋がる曲がり角に着いていた。
いっぽう彼女は、県道より少し逸れた、軽乗用車が1台ぎりぎり通れそうなほどしか幅のない抜け道を通ってきたようだ。俺も遅刻しそうな時には何度か通ったことがあるが、変な風に草が生えていたり、石畳の狂っているところがあったりして滑り転けてしまいそうになる。正直怖い。そんな道をあの彼女が通り抜けてきたのか。そうだろうな。ここに来れる道は2つしかないのだ。
途端に、その抜け道に興味が湧いてくる。ああ、明日通ってみよう。彼女が毎日通る道なら、きっと可憐な花の1輪でも咲いていることだろうな。それとも細い用水路に小さな空が映っていたり、木漏れ日が素朴な美しさを持っていたり、狂った石畳の隙間に、誰も知らないような楽しい秘密が隠されていたりするのか。明日通るのが、とても楽しみだ。否、今日の帰り道でもいいだろう。
そんなことはどうだっていいのだ。問題はもっと他に、とても重要なものが残っているのだ。彼女が俺に気づいてしまったらどうしたらいい。笑って久しぶりと言えばいいか、はたまた先程のように急いでいる振りをして走り去ってしまえば結構か。とにかくこの顔を見られたくない。寝癖が直らないままの髪も、先日から大きな面皰がくっついてしまって離れてくれない不格好な鼻梁も、吹奏楽の影響で赤く腫れたような形になってしまった唇も、腕時計の形に日に灼けた癖に今日に限って腕時計を忘れてきて、白く無様な「かた」がくっきり残った腕も。すべての俺の汚点が忌々しく、いつもより威力を増して俺を惨めにさせる。
それにしてもこの鼻梁の面皰は、いつ治るのか。だんだんと化膿さえしてきて、不意に触れるとびりびりと痛む。テスト期間の影響で睡眠時間が短かったからか。それに加えて勉強のストレスから菓子や油ものを呑むように食べたことも後悔すべき理由だ。まあ、そんなのは今考えるべきことではない。
あんなに見たくないと言っていても、彼女のことを気にしてしまう。ありきたりなラブソングみたいで笑える。今俺たちは、国道に出るために、ひとつの建物を挟んで90度に、ひとつの角の両側に位置している。目の端で例の彩やかなさくら色の自転車を盗み見る。やはり、そこにいる。
徐々に、視線をずらして、視野の中の彼女の割合を増やしていく。だんだんと、釘付けになっていく。本当は目を背けたくてたまらないはずなのに、目が、体が勝手に彼女を焼き付ける。馬鹿みたいに固まって彼女だけをおう俺を、ついに彼女の目も捉える。俺たちは真っ直ぐに見つめ合う。ついに俺は、彼女の目を見てしまう。
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