セルカとナイフ

@rokunanaroku

第1話

 セルカは、ナイフの切っ先に舌を這わせ、唾液と血で濡れたそれを赤く燃える夕焼けにかざした。

 ナイフの鈍色が、彼女の血液と夕陽の真紅に染められている。

 小ぶりな柄の部分から、見ただけで寒気がするほど鋭利な刀身がすらりと伸びたナイフ。

 危ないからと、誰が止めても彼女がそれを携帯するのをやめることはない。

 今日は二人で一緒に海までドライブに来た。僕が運転席に乗って、彼女が助手席で。別に、僕たちは付き合ってる訳ではないけれど、アパートで一緒に住んでいて、よくこうやってふらりと出かけるのだ。

 今、僕たちは名匠の絵画を切り取ったかのように幻想的な砂浜の上で肩を並べていて。

 普通の人なら、愛の告白でもしてしまいそうな、そんな雰囲気の中にいて。

 それでも隣のセルカは、金色の髪を潮風にたなびかせながら、真っ赤なナイフをとろけた目で見つめている。

 頭がおかしい。

 狂っている。

 そう、言う人もいるかもしれない。





 僕とセルカが出逢ったのは、都市部の交差点だった。

 スクランブル交差点と呼ばれるそこは、一度の青信号で千単位の人が通行すると言われていて、皆が皆、列を乱さぬように渡っている。僕も、その一部だった。

 いや、その一部になりかけていたと言うべきか。

 当時の僕は、迷子だった。他人が決めたに押し潰されて、を見失いそうになっていた。

 具体的に言えば、僕は小説家になりたくて、必死に努力して、でもそう上手くはいかなくて。

「現実をみろ」「もう諦めろ」両親や先生から言われたそれらの言葉を言い訳に、自分の夢を手放そうとしていた。

 今思えば、それは単なる楽な人生へのレールだったのだ。その通りに進めば、それなりの成功があって、それなりに裕福に暮らせて、それなりの幸せが待っている。





 その時の僕は、担任に勧められた大学に行くために、同じく担任に勧められた塾へと向かっていたはずだ。

 土曜日の朝から、交差点の信号が青へと変わるのを先頭で待っていた。背後には、休日出勤のサラリーマンや、僕と同じく塾や予備校に通うのであろう、学生らしき人達がいた。

 信号から、止まっている人間の記号が消え、代わりに歩いている人間の記号が表示された。

 直後、僕たちはその記号の通り歩き出した。

 横断歩道の白い線を数えたりせず、周りなんて見もせず、それなのに体裁だけは気にしつつ、示された道の上を、ただひたすらに歩く。

 一歩、また一歩と、横断歩道の終わりに近づいていくごとに、計り知れないほど大きな歩幅で、夢から離れていく感覚があった。

 それは、今までまとわりついてきた悩みや不安が、ぱらぱらと剥がれ落ちていくようで、どこか気持ちよくさえあった。

 その快感は、心の奥の奥にある痛みさえも上塗りしていくようだった。

 ちょうど、横断歩道の中盤まで差し掛かった時だ。

 僕は、何かにぶつかって、それまで何も見ていなかった視線を、正面に向けた。

 少女がいた。

 輝く金髪は肩くらいまで。それに包まれる顔立ちは、驚くほどに美しい。青緑色の鋭い双眸が、印象的な少女だった。

 ただでさえ目につく外見をした少女が、横断歩道の真ん中で、時が止まったみたいに立ち尽くしている。

 何だか、物語のワンシーンみたいだな、と僕はその時思った。もちろんその世界の主要人物リストに、僕の名前はないのだろうが、とも。

 僕が見て見ぬ振りをしようと決めたとき、少女は突然しゃがみ込んだ。

 少女はその体勢のまま、「ない、ない」と言って、アスファルトの上で何かを探し始めた。

 当然、少女は周りから奇異の目を向けられる。それでも皆、すぐに興味を失って少女の横を通り過ぎていく。

 僕も他の人と同じ行動を取ろうとして、でも、その場で立ち尽くしていた。

 少女の瞳を見たからだ。

 その瞳の色は、黒でもなければ、青緑色でもなかった。

 何かをただひたすらに追い求める色だった。

 僕が、そのときまさに忘れ去ろうとしていた色だ。

 その目を見た瞬間からだと思う。

 僕の運命が変わり出したのは。

「どうしたの?」

 気づけば僕は、横断歩道の真ん中にしゃがみ込む少女に声をかけていた。

 しかし、返事はない。

「あの……」

「あった!!」

 僕がもう一回少女に声をかけたのと、少女が嬉しそうに弾んだ声をあげたのが、ほぼ同時。

 少女は、周囲の人なんか見えていないかのように、屈んだ体勢のまま元来た道を戻り始めた。僕からみたら、進行方向だ。

 少女は人を押し退けて、進む。

 僕は、気になってそれについていく。

 少女は動きを止めたかと思えば、探し物を見つけたのか突然立ち上がり、こちらを向いた。

 無邪気に目を細める少女が、色白な両手で大切そうに握っていたもの、それは。

 見るだけで背筋が凍るほど鋭利な、ナイフだった。

 その凶器に気づいた周囲の人々がどよめく。中には、悲鳴を上げている人もいた。

 最初は、僕だって、平静を保つことなんて出来ていなかった。埋め立てのコンクリートに脚を突っ込んで、そのまま固まってしまったみたいに、動き出せなかった。額に浮かんだ汗が、たらりと首元まで流れた。

 警察を呼べ、誰かがそう言ったのが聞こえた。

 それだけは、まずい。少女の大切なものが奪われてしまう。

 そう思った僕は、気づけば少女のナイフを持っていない方の手を掴んでいた。誇張抜きで折れてしまいそうなくらい細い、でもちゃんと暖かい手だった。

 僕はそのまま、少女には何も言わず元来た道を走りだした。





 走って、走って、走った。

 さっきみたいな、身を削られるような快感ではなくて。

 もっと心の奥深くの、芯のところに幸福感が宿っていた。

 肌を撫でる風が、流れてゆく景色が、気持ち良すぎて叫び出したい気分だった。

「どこまで走るつもりなの?」

 背中から、眠たそうな声が聞こえてきた。知らない男に連れ去られてるのを全く気にしていないかのようなその声色が、何ともおかしかった。

「わからないよ」

「そうなんだ」

 またもや発せられた、ゆったりとした声。今度は、はははと笑い声が漏れた。

「君はさ、ナイフが好きなの?」

「うん」

 繋がった少女の手の、握る力が強まるのがわかった。気持ちが昂ぶっているのだろう。

「何で?」

 少し考えるような間の後、先程よりトーンの上がった声が聞こえてきた。

「ナイフはね、自由なんだ」

「自由……?」

 耳慣れない言い回しに、思わず脚を止めていた。

 僕が止まると、少女も同じように止まった。気付けば、左手には静かな朝の海が広がっていた。

「うん、自由。ナイフはね、何かを傷つけることも出来ちゃうけど、何かを守ることも出来るんだ。姉さんが言ってたの。だから、ナイフは自由なんだよって。それを聞いてから、私はナイフが好き」

 似ていた。

 僕が本を好きになった理由と似ていた。

 僕の場合は、祖父がかなりの読書家で、そんな祖父に一冊の本を勧められたのが原因だった。

 それなら。

「ねえ」と僕は少女に問いかけた。

「僕も、君みたいになれるのかな。そうやって、好きなものを追いかけ続けられるかな」

 少女は、小さく顎に手を当てしばし考える素振りを見せた後、僕の目を真っ直ぐに見て言った。

「私になれるかはわからないけど……。あなたもナイフにはなれるんじゃないかな。ナイフみたいに、自由に」

 そのときの少女の微笑みと、心地よく吹く潮風は、僕の記憶に強く強く焼き付いた。





 その日、僕は塾をやめた。

 大学進学も、親や先生の言葉も気にせず、僕はひたすらに小説を書き続けた。

 書いては消して、うまくいかなくて、やめたくなってもまた書いて。

 そうやって書き始めて三年後、僕はとある新人賞でデビューを果たした。

 そのタイトルは、「少女とナイフ」だ。





「ねえ、ねえってば」

 セルカが、小さな頰を膨らませながら、こちらを覗き込んできた。

 少し昔のことを思い出していて、呼びかけに気づかなかったらしい。

「ごめんごめん。何言おうとしてた?」

 僕が謝罪の意を示すと、彼女はこくりと頷いた。

 多分、許すっていう意味だ。

 それから、彼女は身を寄せてきた。袖がないため露わになっている腕と腕がぶつかる。

 少し、鼓動が早まった。

「綺麗でしょ?」

 いつもより近い彼女の瑞々しい唇に意識を吸われつつも、僕は彼女の視線をなぞった。

 言葉が、出なかった。

 彼女はその細い腕をいっぱいに伸ばして、沈みかけの太陽に向かってナイフをかざしていた。

 紅い夕陽と、血で湿ったナイフ。

 それらがちょうど重なっていて。

 ナイフの横から顔を出す夕陽も、夕陽をバックにしたナイフも、どちらもため息が出るほど綺麗だった。

「綺麗だね……」実際にため息混じりの言葉が出た。

 返事が無いので横を見ると、彼女はうっとりとナイフを見つめていた。こうなってしまっては、もう数十分はこのままかもしれない。

 まあ、それも悪くは無いな。





 なぜ、セルカはそこまでナイフに釘付けなのか。

 そう、思うかもしれない。実際、僕も全てがわかっている訳じゃない。

 でも、そんなものだろう。

 人の好きなものなんて、他の誰かから見れば、全く理解出来ないのが普通だ。

 だから、セルカは頭がおかしくなんてない。

 だから、セルカは狂ってなどいない。

 彼女は、ナイフを愛しているだけだ。

 そんな風に何かを愛する人に対して、世界が後ろ指を指すようなら。

 そんな世界、無くなってしまえ。

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