2
日が昇るより少し前、暗い玄関で二つの影が微かに動いた。小さな囁きが、廊下の奥に届くより先に消えていく。
「棚のところに朝のパンがあるから、トースターの目盛り一個分な。お昼は冷蔵庫に二人分作ってあるから温めて、炊けてるご飯ならよそえるよな? それから……」
「もう。いつもと一緒だもん、分かってるよお兄ちゃん」
「そうか、そうだよな」
夏生と真冬は顔を見合わせ、静かに笑った。和室から物音がする前に、夏生は音もなく靴を履く。
「いってらっしゃい、お兄ちゃん」
「ん。いってきます」
真冬を抱き締めると、小さな手が夏生の背を三回叩いた。大きな声で応援できないからと、真冬が決めた『頑張れ』の合図だった。
「ちゃんともう一回布団に入れよ?」
「うん。八時に起きるよ」
夏生は満足そうに微笑みながら真冬の頭を軽く撫で、学生鞄を手に、細心の注意を払いながら家を出た。
自宅から畑を一つ挟んだ道に出る頃には、足音に気を配らずに歩いていた。この時間帯に通学する学生はほとんどいない。一人きりの道で、昇り出した日の光と秋の風を受けながら伸びをした。
学校に着くと、職員室で教師達が会議をしているのが校門越しに見えた。体育教師が校舎から出てきたのを見て、身を隠すように裏に回る。もうじき部活動の朝の練習で登校する生徒が来る頃だ。正門が開かれるこの時間帯は裏門が開くことはなく、人通りが無いのを知っている。それに、田舎の外れにある学校には防犯カメラを設置する予算も無い。改めて人の気配が無いことを確かめて、夏生は慣れた様子で裏門を乗り越えた。
誰かに見つかる前に、体育館に隣接した旧倉庫に窓から忍び込む。ここも、新しい倉庫ができてから使われていないことを確認している。本当の登校時間になるまでここで時間を潰すのが夏生の常であった。床に座り込んで壁に背を預け、図書室で借りていた小説を鞄から取り出す。ハードカバーのそれは西洋の歴史を基にしたファンタジー小説で、人間に害を為す獣の爪や牙を持った異種族を銀髪の美しい騎士が討伐するという、ありきたりな物語。児童書ではあるものの、母が読み聞かせてくれたこの物語を夏生は好んで読んだ。栞を挟んだページを開き、物語に没頭した。
「まーたそれ読んでんのかよ、
頭上から揶揄うような声が降る。顔を上げて声の主を視界に捉え、夏生は笑った。
「んなこと言ってお前も飽きもせずここに来るんだもんな、
江森と呼ばれた少年は快活な笑顔を浮かべ、窓から倉庫を覗き込んでいた。くすんだ
「へっへーんだ。いいのか? オレがここに来なくなったら、鵜ノ沢は遅刻確定だぜ?」
「まじかよ、もうそんな時間か!?」
「もうそんな時間だよ。急げよ鵜ノ沢、一限
「やっべ、
産休を取った海老原に代わり、小山が授業を行っている。怒らせると延々と嫌味を言うことで知られる小山を思い浮かべ、夏生は慌てて小説を鞄にしまい込んだ。江森の手を借りて倉庫を抜け出し、二人並んで校舎へと駆けた。知らず競争になっていたそれもまた、夏生にとっての日常だった。
午前中の授業を終え、昼休みを迎えた教室はざわついていた。夏生は江森に視線を投げる。それに気付いて小さく頷いた江森が廊下を歩いていくのを見届けて、鞄を肩に掛けた夏生は追うように教室を出た。
立ち入り禁止の札が掛けられた扉を開け、日光の眩しさに思わず目を細くした。そっと扉を閉めると、階段室の陰から江森が顔を出していた。
「相変わらず素晴らしいお手前で」
「バーカ。ピッキングなんか誰だってできるっつーの」
「できてもやろうと思わねえよ」
夏生は笑いながら江森の隣に座り、弁当箱を取り出した。蓋を開くと、江森が横から覗き込む。
「相変わらず美味そうだよなあ、鵜ノ沢の弁当。お前が作ってるなんて信じらんねえ」
「信じらんなくても俺が作ってんだよ。今朝の礼に、卵焼き一個ならくれてやる」
「まじか、やりぃ!」
夏生が箸を差し出す前に卵焼きは指で摘まれ、江森の口に放られていた。美味い美味いと満足げに頬張る江森に苦笑して、夏生もまた弁当に箸をつけた。
「こんな兄ちゃんいたら、真冬ちゃんも幸せだよなぁ」
「そうかぁ?」
「そうだよ。好きなもんなんでも作ってくれんだろ。最高じゃね?」
「なんでもは作れねぇよ。作れるもんだけだ」
それでもすごいだの真冬ちゃんが羨ましいだのと熱く語っていた江森が、不意に口を閉ざした。
「江森?」
「ああ、いや……なんでもねえよ」
「……なんでもあるだろ。兄貴さんのこと考えてたろ」
「なんでバレるんだ……?」
「お前が分かりやすいからだ」
真剣な表情で考える江森に、夏生は口元を緩ませた。
夏生と江森は、互いの秘密を共有していた。夏生は真冬の存在と父の暴力を周囲に隠し、江森は監護放棄とまではいかないものの優秀な兄と比較され両親に冷遇されていることを周囲に隠している。毎朝忍び込む旧倉庫で出会い、話すようになった。秘密を打ち明けて、打ち明けられた。それから夏生と江森が親友と呼べる関係になるのに、そう時間は掛からなかった。
昼食を終え、夏生は学ランを脱いで江森に背を向ける。江森はビニールパックに入れられた湿布を取り出し、夏生のシャツを捲り上げた。
「いつも悪いな」
「気にすんなって」
夏生の怪我の手当てと、江森の分の弁当作り。交代で行われるそれらも、彼らの日常である。湿布を貼り終えた江森が捲ったシャツを戻し、夏生は学ランを羽織った。ぼんやりと空を見上げる江森を見て、夏生もそれに倣った。
「オレ、母さんも父さんも、兄貴も嫌いだ」
「うん」
「親が逆だったら良かったのにな。少なくともうちの親は殴ったりしねえし、自由ではあるから」
「そしたらお前がうちの父さんに殴られるぞ?」
「お前が逃げらんねえのは真冬ちゃんがいるからだろ? オレ一人なら勝手に逃げて橋の下にでも住めるからいいんだよ」
「はは、よかねーよ。なんだよそれ」
他愛ないことを話しながら、昼休みは過ぎていく。予鈴が鳴る少し前に屋上を出た二人は、江森がかけ直した鍵を確かめて、教室に向かった。
一日の授業が終わり、いつも通り一緒に帰ろうと江森を探すが、いつもなら夏生の誘いを待つか声を掛けてくる筈の江森の姿が見えない。手洗いだろうかと五分ほど待っても、江森は戻ってこなかった。夏生は鞄を肩に掛け、談笑していた三人の同級生に歩み寄った。
「なあ、江森知らね?」
「江森ぃ? 俺知らねえよ」
「あ、さっきなんか職員室呼ばれてたぞ。またなんかやらかしたんじゃねぇの?」
「まじかー……」
「おー、なんか話は聞こえなかったけど」
「そか、ありがとな」
職員室に江森を迎えに行こうと廊下に出た夏生を、口を閉じていた一人が呼び止めた。
「鵜ノ沢。……あいつ、見たことない顔してた。ショックっつーか、なんつーか……もしかして、なんかあったのかも」
首を傾げた夏生に、彼は真っ直ぐに視線を向けた。
「なんかあったら、あいつのこと頼むな。お前、あいつと一番仲良いだろ」
「……ああ、分かった。任せとけ」
彼とは小学校からの友人だと江森から聞いていた。心配する彼を励ますように、夏生は彼に笑顔を向けた。走れば教師に呼び止められる。夏生は出来うる限りの早足で、職員室へと歩いた。
楽園前戦 びどろ @vidro_ss
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