第21話 風呂場にて・2

「アリス?」


 小さく声が聞こえて、暗い部屋に廊下から一筋、光が差し込む。

 部屋のドアを開けたのはお母さんだった。

 ベッドから体を起こす。音が聞こえたのか、ドアをもう少し開いてお母さんは一歩部屋の中に入ってきた。


「なに?」


 不機嫌を隠す気ははじめからなかったけど、自分でもびっくりするくらい低い声が出た。


「あの」

 お母さんの声は、ぼそぼそとして聞き取りづらい。


「ん……なに?」

「……お風呂よ」

「……………………え?」




 多分、何か効果音を付けるなら「かぽーん」って鳴ると思う。

 お母さんに呼ばれてお風呂に来たらお父さんもいた。まぁお母さんがお風呂にいる時点でいるだろうなとは思ってたけど、昨日お父さんに言ったことがあってこうなっているんだろうし、わたしとしてはちょっといたたまれない。


 で、今は三人して広い湯船に浸かっている。わたしの隣にはお父さんがいて、真正面ではお母さんが湯船の中で正座していた。

 湯船のお湯は体温よりちょっと高いくらいで、いつもに比べるとかなりぬるい。浸かったまま五分くらい経っているので、もう指はふやけていた。お母さんは正座で辛くないんだろうか。


「なに?」


 お父さんがいるというのもあって、さっきよりは高い声が出る。

 お母さんが呼び出した、ということは何か話があるということだ。しかもお風呂。そのお母さんがだんまりなのであまり良い話では無さそうだ。

 髪は一度洗ったんだけど、湯船に浸かっている間に少しずつ乾きつつある。雫の落ちる毛先の方が湿っていて、前髪を絞るとぽたぽたと水滴が落ちた。

 お母さんの肩が震えて、ようやく声を発する。その声も一緒に震えていた。


「あ、あの」

「なに?」

「アリス、絵を描くの、やめたらいいんじゃない?」


 何を言われたか判らなかった。

 絵を描くの、やめたら?

 咄嗟に手が出なかったのはわたしが温厚だったからじゃない。お父さんが隣にいたのと、しゃべったのがお母さんだったからだ。お母さんの言葉が足りないのはいつものことなので、今回も何かが足りてないんだろうと思った。頭ではないと思う。


「……どういうこと?」

「アリスさ、絵描くの、そんなに好きじゃないでしょ。なら、そんなに、無理して続けなくても」


 手が出た。

 右の平手が、お母さんの左頬を打つ。水をかぶっているからか、お風呂場だからか、思っていたよりかなり大きな音が鳴った。

 お母さんの頭が左に振れる、倒れこむほどではなかったけど水しぶきが派手に上がる。咄嗟にお父さんが支えて、抱きとめる形になった。

 自分の息が荒いのが判る。肺に熱いものがこみ上げていて、鼻ではなく口で息をしていた。


 夏目家には、お風呂では嘘を吐かないというルールがある。

 それでも、


「言っていいことと、悪いことは、あるよ」

「アリス」


 わたしの激昂を、お父さんが名前だけで優しくたしなめる。その間にお母さんはお父さんから離れて、一度湯船に顔をつけた。すぐに上げると、右腕で不器用に顔を拭って、赤くなった左頬と涙目を隠さずにこっちをまっすぐに見つめる。


「ごめんなさい。言い方が、悪かったわ。でも、」

 息を切って、


「そんなことに、手を使っちゃだめ」


 その瞳は、これまで見たお母さんのどんな眼差しより力強かった。

 今まで見たことのない、お母さんの怒りの表情。気圧されるように謝罪が口を吐いた。


「ごめん、なさい」


 お母さんの瞳から力が抜ける。


「うん……」


 そうして、また静かになる。

 急に怒られたのに驚いて引っ込んだけど、それでもわたしの怒りも偽物じゃなかった。それこそ命を削るくらい打ち込んできたものを好きじゃないでしょなんて言われて、引き下がれるわけはなかった。


「何が言いたいの?」

 自然、声は尖った。


「アリスは、なんで絵を描いてるの?」


 形を変えただけの言葉に、感情のままに切りかかる。


「そこなの? そんなの絵が好きだからに――」

「あ、ごめんなさい。違うわ」

 お母さんは訂正した。


「アリスは、なんで油絵を描いてるの?」


 言葉に詰まった。

 油絵。


「アリス。油絵、そんなに好きじゃなかったわよね」


 そうだ。わたしは、油絵は匂いが強すぎてあまり好きじゃない。夏休みに入るまで、ほとんど水彩画しか描いたことがなかった。

 わたしが、油絵をやってるのは……


「私が、描いてるからよね」


 指摘される。わたしはお母さんを追いかけると決めて、お母さんがやっている油絵を、他にもお母さんがやって来た全部をやり始めたのだ。


「好きな事じゃないなら、それが枷になるようなら、やめてしまって、いいと思うわ」

「でも」


 でも、それは今のわたしには必要な事だ。わたしがお母さんのようになるために、その練習に必要な事で、わたしがもっと上手くなるためには練習が必要な事だった。


「わたしは何か、自分が前に進んだのが判らないと」


 絵が、描けないのだ――

 初めてコンクールに負けた日に出てきたあの黒い塊。アレがある間、わたしは絵が描けなくなっていた。それは水彩画をやってる限り拭えなくて、わたしは油絵を始めたのだ。


「これは、多分、間違ってるかもしれないんだけど」


 お母さんの目はちょっと呆れ気味だった。


「アリス。あなた、水彩画はこれ以上上手くなりようがないのよ。水彩画なら、たぶん私より上手いもの」


 何を言われたのか理解するのに二秒くらいかかった。

 ちょうど二秒後。ちょっぴりの恥ずかしさと、とてつもない大きさの嬉しさで、顔が爆発しそうに熱くなった。


「え、嘘、そんな、そんなこと」

「言ったことはないわね」

 でも本当よ。

 お母さんはそう呟いた。

 嬉しいと楽しいの中間の目をしていた。


「え、じゃ、じゃあ、水彩は、何をやればいいの?」


 わたしはまだ、あれを克服してないつもりなんだけど。

 あ、でも今克服できたのかもしれない。

 ちょろいと言わば言え。他人に、この嬉しさが判ってたまるものか。


「そこなんだけど。私も、これが正しいかは判らないんだけど。やっぱり、好きなものを描く、しかないんだと思うのよね」


 好きなもの。

 わたしは、描いていたつもりだけど。


「アリス、私の絵好きじゃないでしょ。特に水彩」

「え、そそんなこと」

 動揺した。


「判るのよ」

 天才ですもの。

 そう、宣った。


「そういえば、これは龍ちゃんから聞いたんだけど」

 私の目を覗き込んで、


「賞が取れないからって泣いてる間は、私みたいにはなれないわ」


 お父さん?

 横目でにらむと、お父さんはニコニコ笑っていた。

 泣きはらしたりしてないだろうか。ちょっと気になる。

 お母さんは「注目」と言うように湯面を二度叩く。


「アリスの言う、『私みたい』ってどういうこと?」

 何度もわたしが言ってきた言葉を咎める。

 息を大きく吸って、一息に。


「油をやること? 水彩をやること? アクリルをやること? 水墨画をやること? 上手い絵を描くこと? たくさん絵を描くこと? 賞を取ること? 負けないこと? 勉強をしないこと? 友達を作らないこと?」

 そこまで羅列して、もう一つ息を吸う。


「違うでしょう?」

 その言葉は優しく、でも鋭く、わたしの中まで浸透した。


「『夏目こころみたいに』っていうのは、好きなことを好きにやって、好きに生きていくことじゃないの?」


 それは、わたしの思い込みを吹き飛ばす一言で。

 そういえば、という言葉と共に、わたしの頭の中がいたたまれなさでいっぱいになる。


「アリスが、私を追いかけてるって気付いたとき、ちょっと嬉しかった。でも、それは違うんじゃないかって思ったの」

 その言葉は優しくはない。


「私、誰も追いかけたことなんて、ないもの」


 画家を志したことがある者ならば、誰もが思う。

 夏目こころは天才である。


「努力はしたけど、苦労とかしたことないのよ。努力すればするだけ絵は上達したし、上達すればするだけ周りは評価してくれたわ。描きたいものを描けば、周りがそれを選んでくれた。他はからっきしだけど、絵に関しては、頑張っても結果が出ないなんてことはなかったから、誰かを目標にするとか、それを超えてやろうって気持ちは、私には判らないのよ」


 それは、天才の言動。

 周りの苦労を理解できないという、夏目こころの欠点がそのまま表に出てきたような言葉。

 無神経で、無遠慮で、不器用で、それでも、


「でも、」

 お母さんは、ちゃんと優しいのだ。


「努力して、結果が出なくて、それでも続けたいって思ってるのは、凄いことなのよ。それは、私が持ってる絵を好きって気持ちよりずっとずっと強い気持ち。そんなに好きなんだったら、その気持ちにちゃんと向き合ってあげなさい」


 その言葉を聞いているうちに、頭が重くなってきた。湯あたりかもしれない。頭がぼーっとして、目元が熱くなる。腫れている目に、長湯がいけなかったのだろう。自然と、頭が下がってきた。

 ポタリ、ポタリと、雫が落ちて湯面が揺れる。結構長い時間湯に浸かっていたつもりだけど、まだ髪の毛が乾いていなかったらしい。

 左側から、ちょっと固い手が頭に乗せられる。


「私みたいになりたいんだったら、私を目指すのはやめなさい。アリスが持ってる好きにちゃんと向き合って、アリスが描きたいものを描きなさい」


 正面から柔らかい手が載せられて、その暖かさに声が漏れる。

 それはわたしの人生で感じた、何よりも優しい手だった。


「そうしたら、もっと上手くなるわ」

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