第7話 風呂場にて

 新しい目標を見つけて、わたしは今まで以上に絵に打ち込んだ。

 わたしの家に、一日中アトリエにいることを咎める人は居ない。


 朝起きて、ご飯を食べて、絵を描いて、お昼になったらご飯を食べて、また絵を描く。夜になって、ご飯の前には一通り片付けて明日の準備。そしてご飯を食べて、お風呂に入る。それから寝るまでお母さんのパンフレットを眺めたり絵の勉強をして、寝て、また起きる。

 そんな感じに繰り返して、八月もうそろそろ折り返し。


 夏休みに入ってからも、コンクールの成績は上々だった。

「モノレールお絵かきコンクール」

「山の風景画コンテスト」

「環境絵画コンクール」

「黒瀬直水彩画大賞展」


 大賞、最優秀、文部科学大臣賞と全部で一番を取った。高校生までの賞もあるけど、最後のは大人の人も参加する賞なので、夏休み明けの始業式での表彰はこれになるだろう。そんな風に新学期のことを考え始めた頃、


「そういえば、アリス。夏休みの宿題って無いの?」

 お父さんにそう聞かれて初めて、そういえば、と思い出した。


「……ある」

「あ、そーなの」


 わたしよりいくらか太い指で、頭をぐしぐしとかき回す。泡だったシャンプーは染み込んだ絵の具の匂いを吸収しながら滴っていき、ぽたぽたと足元に白い泡だまりを作る。


 夏目家では、家族一緒にお風呂に入ることが結構頻繁にある。お父さんとお母さんは毎日一緒に入っているし、わたしもそれに一緒になることが週に一回くらいあった。そして夏休みに入って、その頻度は増した。


 もともと、お父さんたちが結婚する前から、悩み事や相談事とかがあった場合に銭湯の家族湯で話し合っていたのがそのまま家族になった後も続いているということらしいのだけれど、そういう意図もあって夏目家の風呂場は大きめに作られていた。


 広い湯船はわたし達三人が並んで浸かるのに十分な縦幅と横幅があって、お母さんはよくここで泳ごうとする。シャワーも2つあるしちょっとした温泉みたいになっていて、わたしがお風呂に入ることが好きなのはそういう施設的な面も大きいのかもしれない。

 少なくとも、わたしはこうしてお父さんに髪を洗ってもらうのは好きだった。


 暖かいシャワーをかけられて、泡が排水溝まで白い川を作る。右に左に頭を振って泡をまんべんなく流したら、顔を拭う。勢いよく頭を振ると、ほんの少しぼーっとした。

 椅子から立ち上がって、ぼんやりとしたまま湯舟まで歩く。ぼんやりとした視界に移るよく知った風呂場は薄い色ばかりでもそこに何があるのかをしっかりと伝えてくれる。赤茶色のタイルの中に置かれた真っ白な湯舟に、もやが晴れる前に辿り着くことができた。


 足からゆっくりと湯船に入って、体温より高いお湯にゆっくりと浸る。

 後から来たお父さんがわたしの隣に少し間を開けて浸かって、聞く。


「宿題、やってるの見ないけど、進んでる?」


 そして、夏目家のお風呂には一つのルールがある。


「まだ、やってない、です」

「珍しいね」


 嘘を吐かないことだ。

 これも元はお父さんたちのルールで、普段から嘘を吐いたり冗談を言ったりしているかはともかくとして、わたしもそのルールを守っている。これは正確に言うと「本音で喋る」というのがその本質だろう。


 悩み事があるならちゃんと言う。判らないことはちゃんと聞いて、隠し事はしない。そういう話し合いの場としての役割が、夏目家のお風呂にはある。

 なので、些細なことから真剣な悩み事まで、何かあるとこうしてお父さんは聞いてくる。でも、それはあまり悪いことでもなくて。


「やらなかったら、怒る?」

 こっちがちゃんと答える代わりに、こっちが聞いたことにもちゃんと答えてくれる。


「僕は怒らない」

 そういうお父さんの目は、わたしを見ていない。まだ少し波が残っている湯面を眺めながら、ちゃんとゆっくりと言葉を選ぶ。


「別に、宿題をやるのが嫌でやってないわけじゃないだろうし。アリスが学力に困ってないのは知ってるし、絵が楽しくてそっちに時間を使いたいって思ってるのも知ってる。宿題は締め切りまでに仕事を終わらせる力をつけるため、って考えもあるけどそれももう十分備わってると僕は思う。だから、僕は怒らない」


 普段からお父さんはわたしのことをよく見てくれている。お母さんが見てくれていないわけじゃないけど、よく知ってくれているのはやっぱりお父さんだ。


「結構言われることなんだけど、宿題って自分の為にやるものなんだよな。やらないと怒られるとかそういうんじゃなくてさ。自分がどこまでできるのかを確かめるものだし、提出も、自分がこれだけはやりましたっていう証明みたいなもの? これだけはできますよって自分の力を簡単に証明するというか、そういうものだから……」


「やらなくてもいいんじゃない?」

 唐突に割り込んできた声に、お父さんは素早く返す。

「本音が過ぎる」


 本音と身体を一切隠すことなく、シャワーを浴び終えたお母さんが歩いてきた。うーん、服を着ないままで見てもやっぱり子供に見える。胸も、お尻も、腰回りも太くはないけどスラっとしているわけでもなく、なんかぷにぷにしてそうな印象。しかも家からほとんど出ないからその肌の白さが目立つ。一番外にいただろうわたしと並ぶと特に。


「少しは隠せ」

「別にいいじゃない」


 そう言ってわたしとお父さんの間に飛び込む。湯面が大きく揺れてしぶきが顔を叩いたので、手で袋を作ってお母さんにもかけ返してやった。


「あ、このっ」

「先にやったのそっちじゃんっ」

「飛び込んだだけじゃないの!」

「飛び込むなって言ってるの! また太ったんじゃないの!」

「あー、それはライン越えよ!」


 そんな風にばしゃばしゃとじゃれ合って、


「やーめーろ」

 お父さんに勢いよくお湯をかけられるまでが、いつものことだった。

 掌で顔を拭きながら、またぶくぶくと湯船に口元までつかる。体温より高い温度のお湯、肩までつかっていられるのは後何分くらいだろうか。ふと見るとお母さんも同じようにしていて、泡に声を混ぜる。


「アリスが真面目なのって龍ちゃんの影響よね」

「お母さんって、勉強得意じゃないの?」

「んー、夏休みの宿題一回も出したことないわね」

「それはもはや不得意ですらねぇ」

「でも、アリスは絵を描いてるでしょ」


 お父さんを無視するように出てくるお母さんの言葉は力強い。それは何かから逃げ出すんじゃなくて、それさえあれば生きていけるって信じている力強さなのだろう。


「自分ができるとか能力の証明とか、そんなの勉強に頼らなくても絵を描いてるってのが何よりの証明なのよ。画家に必要なのは、何よりも絵を描けるって能力よ」

「生きる方法くらいは身に着けてほしいですけどね僕は」

「龍ちゃんがいるじゃない」

「アリスにはいない。いやいるけど。それでも大人になるくらいには、生き方はちゃんと学んでおいてほしい」

「それは、龍ちゃんみたいな人を見つければいいのよ」

「お前それ簡単に言うけどさー」


 そういえば、とふと気になったことを口にする。

「お母さんって、どうやってお父さん見つけたの?」


 しばらくの沈黙。

「…………聞きたい?」


 そう訊き返してくるお母さんの顔は、嬉しいというより自慢したくて仕方ない、みたいな、濃い暑さを纏っていた。


「いや、やっぱりいい」

 ざばりと立ち上がる。


 もう十分温まった。頭もまたちょっとぼーっとし始めたし、これ以上ののろけはわたしには必要なかった。

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