MASKーマスクー

@syu___

プロローグ

プロローグ


「……もう帰らない?」

「帰りたきゃ一人で帰れ。俺はもう、あんな茸食うのはごめんだ」

「あんな茸って、そんな言い方ないだろ」

「うるせぇ」

 囁くように交わされた会話は、風で草木が揺れた音に掻き消されていく。

 かれこれ一時間、レオンとリエフはうつ伏せのまま、月明かりが差し込む森の中に身を潜め続け、ひたすらバルーンピグの糞を見続けていた。

「はぁ。何か気分悪くなってきた……」

 レオンはそう言いながら橙褐色の髪をぽりぽりと掻き、そのまま隣にいるリエフの体を枕代わりにし、仰向けになった。草木の間から見える空は雲一つなく、いつまでたっても獲物を捕まえられないレオンたちを嘲笑うように、満月は煌々と輝いていた。

「……ていうか、ほんとに来るの」

「あぁ。あいつらは仲間の糞の匂いに寄ってくる習性があるからな」

「そりゃ俺だって知ってるけどさぁー」と口を尖がらせながら、リエフの体毛を無意識に撫でる。次いでそのまま鬣に触れようとしたとき、リエフの肉球がレオンの手を抑えた。

「おい。俺はぬいぐるみじゃねぇんだぞ」

「でも、不思議と嫌じゃないでしょ」

 レオンは口元を緩ますと、つられるようにリエフも口の中から少しだけ牙を覗かせた。

 ガサッ。

 そのとき、何かが小枝を踏むような鈍い音が聞こえるや否や、咄嗟に二人は息を殺し、糞に視線を移す。すると、木陰からまん丸と太った薄ピンク色のバルーンピグが現れ、糞の方にひょこひょこと向かって行く姿を捉えた。

「よし、いつものフォーメーションでいくぞ」

 レオンは獲物を一点に見つめながら軽く頷き、その場をそっと離れる。

 糞の目の前まできたピグは目をつぶり、それを嗅ぎ始めると、背後からリエフが忍び足で一歩ずつ近づいていく。その姿と鋭い目つきは、身の毛がよだつほどの殺気を帯び、体長は百七十センチのレオンと大差ないのにも拘わらず、臨戦態勢にはいるだけで威圧感が何倍にも増す。

 リエフの鋭い爪が届く距離のあと一歩まで迫ろうとしたとき、ピューッ、っとリエフの右前足から突然高い音が鳴り響いた。

「な、なんでこんなところに小枝笛がっ」

 その音に反応したピグは、すぐさま全身を赤く染め上げると、大きく開いた鼻孔から勢いよく空気を吸った。リエフは咄嗟に左前足を上げピグに振りかざしたが、既に風船のように膨らんだ体に爪をつるりと滑らせると、ピグの足は地から離れ、ふわふわと空中に浮き始めた。

「そっちに行くぞっ!」

「あいよっ!」

 木の上でスタンバイしていたレオンは両手を大きく広げると、浮かび上がってくるピグ目掛け飛び降り、抱き着くように捕まえ、背中から着地した。

「うふっ……。や、やったぞ、リエフ……」

「ふぅ。ま、予想通りだな」

「なにが予想通りだっ。小枝笛踏んでたじゃんか!」

「わざと踏んだに決まってるだろ!」

「あー、いいよ。そんなに素直になれないんだったら、これは俺が全部食べちゃおーっと」

 レオンは腕の中で暴れているピグを更に強く抱きしめ、リエフに背を向ける。

「いい加減にしろ、小僧の分際でっ……」

「なんだとっ!」

 二人は額を合わせ、互いに睨み合い、火花を散らせる。

「俺は小僧じゃない! 父さんからもらった立派な名前が……。え」

「ブヒュ──!」

 ピグはいきなり叫び声を上げると、体内に溜めていた空気を勢いよく鼻から吹き出し、レオンの腕の中から飛び出すと、縛り目が解けた風船のように空中で暴れだした。

「何やってんだ小僧!」

「う、うるさい! 早く捕まえて!」

「ブヒュ──!」

 バルーンピグはまるで空気の抜けた風船のように縦横無尽に宙を舞い続ける。

「こんなの取れねえよーっ」

 二人は手を伸ばし、無我夢中でそれを追う。

「ブヒュ────!」

「チッ、ちょこまかとっ!」

「ブヒュ────。ブヒュ。」

「「あ、落ちた……」」

 ブヒュ。

「「あ、立った」」

 ブヒュ────!

「「に、逃げた────!」」

「ブヒュ、ブヒュ、ブヒュ、ブヒュ」

 二人は空っぽの腹に力を入れ、無数の草木を飛び越えながら、森の奥へと疾走するピグを追う。

「何で豚なのにあんなに速いんだよーっ」

「この森の草を食ってそだった豚だ。きっとフラグメントの恩恵を受けてるんだ」

「ブヒュ、ブヒュ、ブヒュ、ブヒュ」

 ピグは減速するどころかだんだんと加速し、距離が離されていくごとに息が切れ始める。

「だめだ、このままだと」

「マスクを使え。一気に畳み掛けるぞ」

「こんな状況で無茶言うぜ……」

 そう呟きながらレオンは、手の甲に一本のリエフの爪痕が入った左掌を口元に当て、目をつぶった。

 ドクッ、ドクッ、ドクッ。

 早さが違うリエフの鼓動(ビート)に耳を澄まし、全神経を集中させる。

 ドクッ、ドクッ。

 体温が上昇し、茶色に染まった鬣が首元から生え、草木の匂いが鮮明になる。

 ドクッ。

「グラシアス」

 二人の鼓動が一つに重なり合うと、レオンの全身は薄茶色の獣毛に包まれていく。頭上にはリエフの猫耳、尻には尾、首元には鬣が生え、顔の各パーツはよりリエフの要素を得たより強調されたものとなり、最後にからし色の布にリエフの鋭い牙が描かれたマスクが口元を覆った。

 その威容ある姿はまさに百獣の王『獅子(ライオン)』、と限りなく似て──しかし、非なる者。

 鋭い爪と肉球がついた両腕を地面に着けると、『レオン=リエフ』は先程の何倍もの力で強く地面を蹴り、加速した。

『ちょっとは上達したか』

「まだまだっ」

 いつもの体では感じられないような疾走感と、風を切る音が気分を高揚させる度、四本の脚の回転数が早くなっていく。

「ハッ、ハッ、ハッ」

 鬣を靡かせながら、ぷりっとしたピグの尻に段々と近づいていく。

『共鳴が乱れてる、一度落ち着かせろ』

「なんのこれしきっ」

「ブヒュ、ブヒュ、ブヒュ、ブヒュ」

(あと少しっ……)

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」

 レオン=リエフはピグの後ろにつき射程圏内に入ると、爪を立てた左前足を素早く上げた。

「いけぇぇぇぇ──―!」

「ブヒュ────!」

 そう叫びながらピグの体を切り裂こうとした瞬間、突如として鋭く尖った前足の爪が人間の腕に戻った。

「あ、あれ?」

「ブヒュ」

 ピグはいかにも馬鹿にしたように鼻で笑うと、息を大きく吸い、再び風船のように宙へ浮かび、消えていく。

 マスクが解け、共鳴が解除されるや否や、レオンは鋭い視線を感じ恐る恐る隣に目を向ける。

「あ、いやぁー、そのぉ……」

 リエフは眉間にシワを寄せ、牙を剥き出しにしながら、今にも爆発しそうな怒りを必死に堪えていた。

「この代償は高くつくぞ。馬鹿レオンっ!」

「ごめ────んっ!」

 そのレオンの叫び声は、広大な創造の森の隅々まで響き渡った。

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