外伝Ⅱ 妖花~その28~

 下着をはき、上着を羽織って部屋を出た。


 狭い家である。皇宮なら廊下の端など見えなかったが、この家では玄関も行き止まりもすぐに見えた。辺鄙な地にある隠居小屋としては最適かもしれないが、皇族の若者が住まう場所ではなかった。


 「おはようございます、王子。昨晩はお楽しみでございましたね」


 レオンナルドが狭い廊下の板を軋ませながら歩いていると、隣室からひょこりと年老いた男が顔を覗かせた。


 「うるさいぞ、爺」


 レオンナルドは不機嫌そうに言った。彼の名はネブラ・ネビュロス。レオンナルドを幼少期から世話し、教育係を務めてきた老臣である。レオンナルドの知性にいち早く気づき、それを伸ばそうとしたのもネブラであった。レオンナルドの情を欠いた言動も、覇者に相応しいと公言して憚らなかった。


 エスマイヤの死後、レオンナルドがこの地へとやってきた時も進んで供を申し出たほどであり、事実上の幽閉という仕打ちに対しては、


 『皇帝は虎を野に放ったも同然だ。寧ろ王子にとっては僥倖である』


 とほくそ笑んでいた。後にレオンナルドが決起してからは謀臣、軍事参謀として七面六臂の活躍をし、彼の覇業を助けた。レオンナルドの皇帝即位後は軍務卿、宮廷顧問官を歴任する。


 「朝食ができておりますぞ」


 今のネブラには後の姿の面影はまるでない。単なる使用人でしかなかった。


 「隣に寝ている女を起こしておけ。金でも与えて、とっとと帰らせろ」


 承知しました、と下卑た笑みを浮かべたネブラはレオンナルドと入れ替わるようにして寝室へと入っていった。


 席について朝食を食べていると、身繕いを終えた例の女が足早に去っていくのが窓越しに見えた。


 「いやはや。強欲な女ですな。金をちらつかせると、五万帝国ギニーもせびってきました」


 しばらくするとネブラが愚痴りながら戻ってきた。


 「まさか五万も出したんじゃないんだろうな?」


 「いえいえ。二万八千まで値切りました」


 ネブラは得意げに笑った。二万五千まで値切れよ、と悪態をつきながらレオンナルドはパンを口の中に掘り込んだ。


 「レオ兄!起きているか!」


 朝食を食べ終えた頃、玄関先から雷を落としたような大声がしたかと思うと、ずかずかと巨漢が部屋に入ってきた。


 「おお!レオ兄!起きてたか」


 「うるせえ。そんな怒鳴らなくても聞こえているわ。それに人の家にずかずかと入ってくるな、テイン」


 悪い悪い、とテイン・アクラマスは、豪快に笑いながら勝手に席に座った。レオンナルドより二歳ほど年下で、近所に住んでいる農家夫婦の息子である。ひょんなことから知り合い、レオンナルドを兄事するようになった。学がなく、文字さえろくに読めないが、勇敢さと天性の勘のよさからレオンナルド決起後は切り込み隊長を務め、幾多の戦場で活躍をしてきた。それは後のことであり、現在のテインは、持て余し気味の怪力を農具を使って土くれにぶつけ、時としてレオンナルドの家に遊びに来る日々を送っていた。


 「どうしたんだ、こんな朝っぱらから」


 「おお、そうよそうよ。村長から手紙を預かってきた。帝都かららしい」


 テインが封書を差し出した。送り主を見ると、帝都に残してきた義妹のカザリーンからであった。レオンナルドが親族の中で唯一心許している存在である。


 「カザリーン様からですか?」


 テインの分の朝食を食卓に並べたネブラが尋ねた。レオンナルドは何も応えず読み進めていったが、突如笑い出した。


 「ははっ!見てみろ、爺!これほど痛快なことはないぞ!」


 レオンナルドは手紙をネブラに投げ渡した。


 「ほう。ベイマン家が滅亡しましたか」


 「ふん。帝室に巣食う寄生虫が駆除されたわけだ。愉快極まりない」


 「それに代わって宰相になったのはワグナス・ザーレンツというのは、あのカップナプルの件で陛下をお救いした若造ですかな」


 「そのようだな。いらんことをした小僧だ。ということはベイマン家を滅ぼした絵図面を描いたのもこいつだな」


 なかなかの人物のようですな、とネブラが言うと、俺ほどじゃねえよ、とレオンナルドは返した。


 「どちらにしろこれで面白い世の中になるな」


 この時はまだ、自分の時代が来るなどとは思っていなかった。帝国の政治に綻びが生じ、帝都へと帰れる日が来るのではないかという淡い期待しかレオンナルドにはなかった。

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