外伝Ⅰ 朝霧の記~その7~

 晴れて老公から遊学の許可を取り付けたツエンは、荷物をまとめ早速に旅立った。目指すはクワンガ領。ツエンが若き頃、留学していた場所である。クワンガ領にはツエンが生涯の師と定めた人物がいた。


 ラブール・ホウル。クワンガ領の領都でクスハルで私塾を開いている老人であった。が、元々はクワンガ領の人ではない。隣領のメイヤ領の生まれであった。


 長くメイヤ領の家老を務め、政治と財政の改革を行い、その名は天下に鳴り響いていた。しかし、十年ほど前に領主が変わり、新しい領主にやんわりと遠ざけられた。父の代から仕えた有能な家臣は何かと目障りであったのだ。そこへ当時のクワンガ領領主アドリアンは声をかけたのであった。


 『是非我が領地にお出でください。塾などを開かれて、天下の健児に対して政治の様々なことをお教えください』


 通常であるならば断るべき事案であった。領主によって遠ざけられたとはいえ、他の領に利する行いというのは心情的にも世間的にも憚って然るべきことであった。


 しかし、ラブールを動かしたのは、アドリアンの『天下の健児に対して』という言葉であった。クワンガ領だけではなく、帝国全土の人々に対して教えを教授して欲しいということであった。


 『流石は教育をもって天下に知れるクワンガ領である。左様言われれば、行かねば恥となろう』


 そう意を決し、ラブールはクワンガ領で私塾を開いたのであった。ツエンも六年前、ラブールの私塾に入門し、約二年間、クスハルで過ごしたのであった。




 クスハルに入ったツエンは、街の賑わいが四年前に比べて影を潜めているのに驚かされた。


 『これも神託戦争の影響か……』


 神託戦争において、反皇帝派の首魁を務めたアドリアンは領主の座から降りた。領地を没収されることはなかったが、今までクワンガ領に子弟や家臣達を留学させていた多くの他の領主達は、皇帝の眼を気にして彼らを引き上げさせていた。そのためクスハルは随分と寂しい状況になっていた。


 ラブールの私塾はクスハルの目抜き通りから一歩入った裏通りにある。ツエンがいた頃などは、いつも中に入れぬ生徒が門前にひしめき合っていたものだが、今はそのような様子もなくひっそりとしていた。


 「先生はおられるか?」


 ツエンが軒先を潜ると、当のラブールが箒を片手に土間を掃除していた。腰を屈めていたラブールは、ツエンの姿を見とめると、相好を崩して箒を壁に立てかけた。


 「おお!ツエン・ガーランドではないか。なんと懐かしい!」


 「先生、お変わりなく」


 「見た目はな。しかし、ここ最近腰が痛くてな。どうにも年だな。それにこの状況だ」


 私塾の中には数名の生徒がいた。誰もが箒、雑巾を片手に掃除をしており、時折客であるツエンに興味深げな視線を送っていた。


 「私がいた頃は、雑巾がけをする生徒で廊下が埋まっておりましたが……」


 「うむ。神託戦争以後、生徒の数は半分以下になった。まぁ、仕方のないことではあるがな」


 「寂しいものです」


 「そうじゃな。ところでツエン。宿はどこに取った?しばらくおるのか?」


 「近くにとっております。しばらく、また先生に教えをいただきたいと思い、半年ほど遊学の許可を戴きました」


 「ほほ。今更お前に教えることなどないのだがな。まぁ、喜ばしいことだ。今夜来なさい。久しぶりに飲もう」


 ラブールは嬉しそうに誘った。ツエンは勿論応じた。




 夜になってツエンは再びラブールの塾を訪れた。塾にはすでに生徒はおらず、ラブール一人でツエンを待っていた。


 「寡暮らしでな。たいしたもてなしもできんが、勘弁してくれ」


 生徒達に勉強を教えている部屋に通された。卓上に並んだのは干した川魚を炙ったものや、木の実を炒たものなど、とても質素であったが、酒の肴には良さそうであった。


 『流石先生だなぁ』


 人の上に立つ者は質素たれ、というラブールの思想がここにも表れているような気がした。


 「お一人では何かと大変でしょう。以前のように門人達とお暮らしになればよろしいのに」


 「最近は一人の方が落ち着くのでな。しっかりと書見もできる。これも年のせいかな?」


 「左様なこともありますまい。ああ、これは私からの土産です」


 ツエンはナガレンツ領の醸造酒を差し出した。


 「ほう。これはこれは」


 ラブールの喉が激しく上下した。ラブールは酒には目がなかった。早速封をあけ、グラスに注いだ。乾杯を終えるやいなや、ラブールは待ちかねたとばかりに口をつけた。


 「ああ、美味いなぁ。お前が初めてこの酒をもってきた日のことを思い出すよ」


 ラブールは今にも涙を流しそうであった。そこまで喜んでもらえれば、ツエンとしても嬉しかった。


 「この酒はクスハルでは手に入りませんか?」


 「入らんな。勿体無い話だ。これを帝国全土で売れば、どれだけナガレンツを助けることか」


 「左様です」


 「これからは商いによって富まさなければならない。いつまでも農本的な考えでいては取り残される」


 ツエンの政治思想である『商業政策による富国強兵』論は、ラブールから教えられたものであった。


 「農業は大切だ。食べ物がなくては、人は生きていけないからな。しかし、国家や一個の領という広い範囲で見た時、貨幣経済は進んでいるし、農業に寄らず生計を立てている者も少なくない。そう考えると、農業をも組み込んだ商業経済というものを確立していかねば、いずれ経済が破綻する」


 ツエンはいちいち尤もだと思い頷いた。


 ツエンとラブールの酒宴は夜更けまで続き、ツエンはかつて教わったことを復習するかのようにラブールの言葉に耳を傾けていた。

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