外伝Ⅰ 朝霧の記~その4~

 神託戦争終了後、世間は表向きは平穏を保っていた。だからと言うわけではないだろうが、ツエンは謹慎を許され、領都ナオカへ戻ってきた。


 約一年ぶりの我が家である。多少感慨深かったツエンは、門扉の前で少し立ち止まった。


 「さぁ義兄上、何をしております。中で皆様がお待ちですよ」


 謹慎先から若党のように付き従ってきたサダランが促した。


 「うむ」


 ツエンは照れ臭く感じながら我が家に入った。


 「お帰りなさいませ」


 玄関で待っていたのは妻のクノであった。結婚してすでに十年も経つが、その頃とまるで変わっていなかった。


 「息災のようだな。それに変わっていない」


 「当たり前でございますよ。たった一年ですから」


 クノは快活に笑った。こういう少女のようなところがツエンには好ましかった。


 「たった……か」


 「そうですよ。三年も四年も放浪されることを思えば、一年なんて短いものです」


 クノは決して皮肉で言ったわけではなく、邪心無くこういうことを言える女性なのだ。


 『よく俺なんぞに尽くしてくれている……』


 ツエンは感謝するしかなかった。連れ添った十年の間、その半分以上は家を開けている不良亭主である。愛想を尽かされてもおかしくなかったが、クノは文句の一つも言わずにいる。しかも、貞淑な妻として我慢をしているわけではなく、天性そのようなことが苦にならない女性であった。ツエンは純粋に妻のことを尊敬していた。


 『男に生まれていれば、俺など足元に及ばぬ政治家になっていただろう』


 もしそうなっていたならば、ツエンなどは顎で使われていただろう。そう想像すると愉快で仕方なかった。


 「まず湯浴みをなさってください。お着替えはそちらに。お父様とお母様は居間におりますので」


 「分かった分かった」


 てきぱきと指示するクノ。ツエンは唯々諾々と従っていればよかった。


 湯浴みを終え、ツエンは洗濯したての衣服に袖を通した。そのまま居間へと向った。


 「ただ今帰りました。父上、母上」


 居間には父であるイニグスと母であるカサラが待っていた。父は眼鏡を動かしながら新聞に目を通していて、母はちょうど茶を入れているところであった。


 「帰ったか。思いのほか健康そうだな」


 イニグスはちらっとツエンを見た。それまで頭部にしかなかった白いものが顎鬚にも見えた。一年前に比べさらに年を取った印象であった。


 「ご迷惑をおかけしました」


 「うん」


 イニグスは短く言って、それ以上は口を開かなかった。


 「そう立ってないでおかけなさい。クノさんも」


 カサラは、いつのまにかツエンの背後にいたクノにも声をかけた。こういう気の利くところが母であった。


 「どうだ?元の役職に戻るのか?」


 イニグスは唐突に訊いた。謹慎前のツエンの役職は、財務方の官吏であった。イニグス自身も財務方一筋であり、退役した現在でもまれに相談を受けることがあった。


 「さて、どうでしょう。ひとまずは出仕見合わせとなっております」


 謹慎は解けたが、出仕せよとの命令は受けていなかった。完全に許されたというわけではないのかもしれない。


 「実は恩給が減らされた」


 すでに退役しているイニグスは、恩給を受けて生活をしていた。イニグスは役職柄、理財に明るかったので、過分に蓄財があった。だから恩給を減らされたことで生活に困ることはない。イニグスは単に生活のことを言っているのではなく、恩給の減額を通して世情の不安を訴えているのだった。


 「いつからです?」


 「今月からだ。月三万ギニーも減らされた」


 「戦後の経済不況とはそういうものです。もっとひどくなるでしょう」


 「他人事だな。我が家に蓄財があるとはいえ、跡取りが無役では格好がつかんぞ」


 耳の痛い話であった。しかし、上が何も言ってこない以上、ツエンとしては無役のままいるしかなかった。


 「いずれ沙汰があるでしょう」


 ツエンは呑気そうに茶を飲んだ。いずれツエンが必要とされる時が来る。それまではのんびりと過ごすつもりであった。




 夜となった。久しぶりに夫婦水入らずの閨であった。一年ぶりに抱くクノの体は若い頃と変わらず瑞々しかった。


 『まだ娘みたいだ』


 初夜を過ごした十年前とまるで変わっていなかった。クノは肉体的にも精神的にも老けておらず、ツエンはクノを抱きすくめながら感心させられた。


 『あるいは不幸なのかもしれないが……』


 ツエンとクノの間には子がいなかった。子がいないからこそ、クノは娘のように若くいられるのではないか。そんな馬鹿なことを考えてしまった。


 「俺は馬鹿な男さ」


 事を終え枕を並べていると、そんな言葉がでてきた。クノへの懺悔の念が言わせているのだが、そういう言葉でしか表現できなかった。


 「馬鹿でございますか?」


 クノがくくっと笑った。


 「何がおかしい?」


 「だって、普段は自信満々なあなたが自分のことを馬鹿と仰るものですから……」


 「俺は大馬鹿者さ。真面目な両親の間で生まれながら、馬鹿をやって無役でいるし、良妻を何年もほったらかしにしている。これ以上の馬鹿者はいないさ」


 「あら、私は楽しゅうございますよ。あなたの妻になったからこそ、楽しい生活を送っていると思っていますわよ」


 きっと世辞や上辺だけで言っているわけではあるまい。本心からそう言っている。クノはそういう女性であった。


 ツエンはもう何も言わず、再びクノの体を引き寄せた。

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