矜持

矜持①

 かようにして帝国北部が盛り上がり、あたかも独立勢力と化する中、帝都は沈み切っていた。


 エイリー川の戦いで大敗北したジギアスは、僅かな供廻りだけを連れ帝都に帰ってきた。それは当然ながら凱旋と言えるものではなく、帝都の民衆はこれほど無残な姿を晒して帰ってきた皇帝というものを見たことがなかった。


 『どうやら皇帝陛下は負けたらしい』


 という噂が帝都で広がったのは、ジギアスが帰ってきてすぐのことであった。ジギアスより遅れて帰って敗残兵によってもたられたものであり、それが事実であり、しかも歴史的な敗退であると知れると、帝都の民衆達は帝国の前途に暗いものを感じざるを得なかった。


 『皇帝を破ったサラサ・ビーロスは皇統に連なる者らしいぞ』


 『帝国北部ではレオンナルド帝の再来と言われているらしい』


 『いやいや、すでにサラサ・ビーロスは即位を宣言したと言うぞ』


 噂が噂を呼び、帝都におけるサラサの実像が大きくなり、さらなる噂や憶測が広がっていった。


 『北部の多くの領主がサラサ・ビーロスに臣下の礼を取ったらしい』


 『帝都の貴族や商人達も新帝に誼を結ぼうと必死だ』


 『どうやら教会が新帝をお認めになったらしい』


 噂はどこまでも噂でしかなく、サラサの実情からすればあまりにも誇大であった。サラサがもし聞けば呆れ失笑しただろうが、帝都にとっては真実以上の重みがあった。




 『由々しきことだ……』


 帝国の三大閣僚の一角を占め、なおかつ大将軍という軍事上の大権を有しているバーンズとしては、今回の敗北を人一倍重く見ていた。


 『陛下が陛下たらしめていたのは勝利あってのことだ。今回の敗北は陛下の尊厳を著しく低下させた』


 神託戦争においてもジギアスは局地戦闘では何度か敗北をした。それは戦術的な撤退であったり、敵にも大きな痛手を負わしての引き分けに近い敗北であった。しかし、今回の敗北は圧倒的な敗北であった。この敗北を挽回するのにどれだけの勝利を重ねなければならないのか、バーンズには想像もできなかった。いや、ジギアス個人の問題ではない。帝国の屋台骨を揺るがす大きな問題であった。


 今後どうすべきか。ジギアスを交えて対策を協議しなければならないのだが、ジギアスは私室に篭ったきり出てこず、会議が始まらないでいた。


 「いやはやどうすべきでしょうか……」


 教会伝奏方長官であるホルス・マトワイトは、先ほどからしきりに額の汗を拭っていた。緊張と動揺だけが彼の脳を支配しているようで、何をすべきかと考えることを放棄しているようであった。


 「教会の動静はいかがですかな?」


 「はて……総司祭長代理からはお見舞いの言葉をいただきましたが……」


 バーンズが言いたいのはそういうことではなかった。見舞いの言葉など表層的なものでしかない。バーンズとしては教会の本心を知りたかったのだが、ホルスにはそこまで思考が及ばなかったらしい。


 『三閣僚の一人がこの様子では……』


 帝国の前途に暗いものを感じずにはいられなかった。同時に軍事上、皇帝の盾となり得るのは自分しかいないと言う覚悟が生まれた。


 「お待たせした」


 ややあって宰相のレスナン・バルトボーンが姿を見せた。ジギアスの様子を見に行っていたのだが、表情からして会えなかったのだろう。


 「いかがでしたか?」


 無駄と分かりながらも、バーンズは聞かざるを得なかった。


 「お部屋から出られなかった。カヌレア様にご説得をお願いしたのですが、それでも無駄でありました」


 レスナンは無念そうにため息を漏らした。


 「この際やむ得ません。陛下のご不興を蒙ろうとも、扉を壊してでも陛下を部屋からお出し申し上げないと……」


 「そのことですが、大将軍。しばらくはそっとしておいてはいかがでしょうか?」


 「それは……」


 「反乱を起こしたサラサ・ビーロスは別に帝都に向って進軍しているわけではないのでありましょう?」


 「左様ですが……」


 確かにレスナンの言うとおりなのである。サラサ・ビーロスは、ジギアスを散々に撃ち破りながらもこれを追撃せず、改めて帝都に向って軍を進める様子がなかった。彼女がジギアスに取って代わろうとしているわけではない、ということなのだろう。


 「ならば今は我らが延臣が帝国の政治経済を安定させることが先決でありましょう」


 要するにレスナンは、ジギアスが表舞台にいない間に内政の充実を図ろうと言いたいようだ。気持ちは分からないでもないが、皇帝であるジギアスを蔑ろにしているようでもあり、バーンズとしてはすぐには賛同できなかった。


 「しかし、サラサ・ビーロスの行いは、明らかに帝国政治への反逆です。これを放置していては、帝国の威信にも関わりることです」


 「威信。それは帝国と言う国家の威信でありましょうか?それとも皇帝陛下個人の威信でありましょうか?」


 レスナンの思いがけない問いにバーンズは言葉を詰まらせた。何と答えるべきか、バーンズは即答できなかった。


 「国家あっての陛下でありましょう。国家が疲弊しては陛下も存立し得ない。そういうことでありましょう」


 レスナンは言い切った。彼にとっては皇帝と言う存在も一個の機関ではないのだろうか。バーンズは背筋に寒いものを感じながらも、今はレスナンの提案に同意するしかなかった。

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