エイリー川の戦い④
「一斉射だ!放て!」
ジロンの号令一下、自陣の周辺に潜んでいた弓兵が一斉に火矢を放った。つい夕刻までサラサ軍がいた陣地は一瞬にして炎に包まれた。
「逃げ出してくる敵だけを討てばいい。我らまで火の海に飛び込む必要はない」
この陣地を囲んでいるのはクーガの第三軍である。敵軍がまんまと罠に嵌り、勢いに乗って敵軍に殺到しようとする戦場独特の熱気を抑えるにはこの男の沈着の指揮がうってつけであった。
「そろそろだな……」
サラサはすでに目の前の敵から関心を失っていた。彼女の視線は、渡河を開始しているだろう敵軍の本隊に向けられていた。
実際、皇帝軍の本隊は敵陣―サラサ軍の陣―から火の手があがる前に一斉に渡河を開始した。これを指揮するのはジギアスが参謀して連れてきたイーベルであった。
彼とジギアスの呼吸は絶妙であった。イーベルは、ジギアスが敵陣を強襲し、敵が大混乱する直後に攻めかかれるよう、機を見計らって渡河を始めていた。しかし、この絶妙の呼吸が今回は仇となった。
イーベルが異変を察知したのは、敵陣から火の手があがった瞬間であった。火矢を使うというのはジギアスとの打ち合わせの中ではないことであった。
『どうにもおかしい……』
何か異変が起きたことは確かだ。しかし、まさかジギアスが空の敵陣に突入し、包囲されているとまでは想像できずにいた。
この時点、イーベルが指揮する本隊は半分以上が渡河の最中であった。ここで引き返すのはかえって混乱を招くかもしれない。そう判断したイーベルは渡河作戦を続行させた。
『このまま敵陣に突入し、陛下と合流すればいい』
その矢先であった。敵陣から多くの兵士が飛び出してきた。
「敵兵だ!」
どこからそういう叫び声があがった。そうなれば戦場における兵士は恐慌状態になる。皇帝軍本隊は、敵陣から飛び出してきた兵士達に猛然と襲い掛かった。
これが凄惨な同士討ちであることに気がつくにはそれほど時間を要しなかった。敵陣からあがった炎が照明となり、敵陣から飛び出してきた兵士の姿を照らし映したからだ。
「陛下!陛下でありませんか!」
イーベルはその中でジギアスの姿を見つけた。ジギアスの顔は煤で汚れ真っ黒になっていた。
「イーベルか!くそっ!嵌められた!」
「そのようで……」
「この俺が!この俺がこけにされた!くそっ!」
「陛下、お気持ちは分かりますが、ここは一度退いて体勢を立て直しませんと」
ジギアスは一瞬鋭くイーベルを睨みつけたが、そうだな、と同意した。
「一旦退け!体勢を立て直すぞ」
イーベルが叫び散らしたその時であった。火の海となった敵陣の東西から鬨の声があがった。
「突撃!先の戦いで活躍できなかった鬱憤を晴らすは今ぞ!」
ジンの第一軍であった。先のレンベルク要塞戦では参加できなかっただけに、第一軍の士気は旺盛であった。手柄を立てんと我先に、それでいて整然と混乱する皇帝軍に襲い掛かった。
「退け!退け!陛下をお守りしろ!」
イーベルが声を枯らして叫んだ。ジギアスは、必死になって隊伍を整えようとするイーベルを置いて逃げ出していた。
『馬鹿が!』
イーベルは見所のある男だと思っていたが、どうやら見込み違いであったらしい。こんな所で『陛下をお守りしろ』などと叫べば、そこに皇帝がいることを敵に告げているようなものである。
『ひとまず対岸の我が陣に戻ろう』
自陣にはまだ余剰兵力が待機しているはずであるし、防御柵を利用すれば敵の攻撃も凌げる。そこで体勢を立て直すしかなかった。
しかし、その考えはすぐさま打ち砕かれた。本来なら皇帝軍の龍の軍旗が翻っているはずなのに、そこに翻っていたのは獅子の紋章であった。
「敵味方の識別はできるはずだ。敵だけを撃て!」
皇帝軍本隊が出撃するや否や、南東の渡河地点からエイリー川を渡ってきたネグサスの第二軍が素早く皇帝軍の陣地を奪取していたのだ。ネグサス軍はさらに矢を浴びせ、皇帝軍は大河の只中でサラサ軍弓兵の標的となるだけであった。
ジギアスは脱兎の如く逃げ出していた。もはや悔しさも怒りも恐怖もなかった。ただ生物としての本能が手綱を動かし、馬を走らせていた。
どれほど馬を走らせただろうか。ジギアスの愛馬は、帝国全土から捜し求めた駿馬であったが、流石にばててきたらしく、息荒く足も遅くなってきた。
「ついて来ているか……」
ジギアスはようやく馬を止めて振り返った。かなりの数の味方兵がついて来ているようだった。
『よし、ここで体勢を立て直すか……』
周囲を確認すると障害物のない平野である。逃走してくる他の味方兵もこちらのことを発見できるだろう。ジギアスはすばやく軍旗をあげさせ、松明を焚かせた。しかし、これが失策であった。
「待ちかねたぞ!皇帝陛下!」
すでに数日前からエイリー川南側に潜んでいたリーザの第四軍であった。エイリー川北側で火の手があがると同時に出撃し、敗走してくる皇帝軍を捜し求めていたのである。
「かかれ!皇帝陛下を生け捕りにしろとのご命令だ!生け捕りにできた奴は、私とサラサ様から接吻のご褒美があるぞ!」
軍の破壊力として第四軍に勝るものはなかった。第四軍の将兵は猛然と皇帝軍に襲い掛かった。第四軍にはかつてリーザが盗賊をしていた頃の子分が多い。彼らは他のサラサ軍の将兵以上に皇帝という権威に対して感じるところが薄く、寧ろ恨みを持っている者が多かった。躊躇わず、容赦なく皇帝軍に襲い掛かってきた。
ジギアスはまたしても本能に任せて逃げるしかなかった。もはや敵地に留まり抗戦する気などなく、味方兵がどうなるとも気にすることなかった。ただ我が身の保全のためだけに、帝都に向って愛馬を酷使するだけであった。
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