名もなき旗のもとに⑤
アドリアンとの面会はわずか半時ほどであったが、サラサにとっては貴重な時間となった。アドリアンへの複雑な感情は氷解し、気持ちは新たになった。
「いい顔をされていますな。よいお話ができましたかな?」
帰りの場所の中でジロンが聴いてきた。
「まあな……」
サラサは曖昧に答えながら、アドリアンとの話の断片を思い返していた。とりわけ何故神託戦争を起こしたのか尋ねた時のことが印象に残っていた。
『やはり皇帝陛下の強権に対する反発でしょうな。あの時は私だけではない。多くの領主がそうでした。そういう機運の波に乗り、旗頭に担がれてしまった……という感じでしょうな』
『反皇帝の機運というのはそれほどのものだったんですか?』
『まさに。サラサ殿のお父上もそのお一人でした』
『父上も?』
『左様です。こう言っては失礼かもしれませんが、コーラルヘブン領のような小さな領地では、あの皇帝が出した勅命を忠実に守るのは不可能であったでしょう』
『確か、皇帝直轄軍の拠出と租税の二割増しでしたか……』
とりわけ租税二割増しは、これといった農産業が存在しないコーラルヘブン領ではかなり苦しいだろう。
『試算した結果では我が領でもかなり辛かった。とてもではないが、そんなことをすると領地の経営が成り立たないと涙ぐむ領主もおりました。お父上もこう仰られておりました。この勅命を受けても受けなくても我が領は滅びる、と』
『父上がそのようなことを……』
それは初めて知ることであった。父がそこまで悲壮な決意をしていたとは……。
『くだらぬ戦争とばかり思っていましたが、そんな状況でしたか……』
『言い訳かもしれませんが、誰だって戦争など起こしたくありません。だが、時として武器を取らねばならぬ時がある。私にとっては、それがその時だったのです』
間違っていたのかもしれませんが、とアドリアンは静かに目を閉じたのだった。
「そうですか。アドリアン殿はそのようなことを……」
「意地悪なことを聴くようで悪いが、ジロンはどうだったんだ?」
「私は主家に仕えるひとりの騎士でしたから、それほど政治的なことを考えたことはありませんでした」
ジロンは素直に応じた。
「まぁそうだろう。多くの人間はそんなものだ。主体性を持って戦争をしようとする奴なんて、一握り過ぎん」
サラサも今まさに一握りになろうとしているのだった。それだけにアドリアンの心情を理解することができた。
「これでご隠居の支援表明もいただけたのです。心強い限りです」
「その代りに余計な重石を背負うことになったがな。二百の兵では少なかったかな。五百は貸してもらわないと釣り合わんだろう」
エストヘブン領やコーラルヘブン領だけではない。シュベール家の命運もサラサは背負うことになってしまったのだ。
「しかし、動き出した歯車を止めるわけにもいきますまい」
「当然だ。早くカランブルに戻ってやらんとな」
あそこにはサラサが初めて死線を共にした仲間達がいる。サラサはもはや立ち止まるつもりはなかった。
クスハルに戻ってきたサラサ達は、すぐさまアルベルトの屋敷の広間に通された。そこにはアルベルトが上座に座り、彼の家臣らしき人物が数人居並んでいた。
「親父との会談はどうだった?」
アルベルトは流石に素面であったが、椅子の上で胡坐をかき、身を乗り出すようにしてサラサに質問してきた。やはりお行儀は普段からよくないようであった。
「お互いにとって貴重だったとだけ言っておこう。それで十分だろう?」
「なるほど。そいつはよかった」
アルベルトはそれ以上深く追求してこなかった。彼にしてみれば内容などどうでもよく、サラサとアドリアンの間にあったであろう蟠りが解消されればそれでよかったのだろう。
「それでちゃんと約束は守ってくれるんだろうな」
「当たり前だ。すでに我が精鋭二百を控えさせている。すぐにでも出発できる」
このあたりは流石アルベルトである、とサラサは思った。早くカランブルに帰還したいという思いを酌んでくれているし、短時間で一軍の編成を整える手腕も余人にできることではなかった。
「ありがたい……」
「部隊長はそこにいる男。俺の従兄弟だ」
アドリアンが指差した先にいた男がサラサの方を見て会釈した。体格はそこそこで、顔も涼やかな優男といった感じであった。野趣あふれるアルベルトとはやや対照的であった。
「名前はネグサスという。虫も殺さないような君子面しているが、陣地を守り抜けといえば死んでも守りきるような男だ。肝っ玉は俺よりもでかいんじゃないかと思うよ。ネグサス!」
アドリアンに声を掛けられると、ネグサスは、はいと細い声で応じた。
「今日よりお前の主は俺じゃなくてそこにいるサラサ殿だ。これまでと変わらぬ忠誠をサラサ殿に尽くせ。いいな」
「承知いたしました」
ネグサスはさも当然のように言った。アルベルトの従兄弟ということは、彼もシュベール家の者のはず。そこを離れることについて抵抗はないのだろうか。そのようなことを尋ねようとも思ったのだが、あまりにもネグサスが淡々としているので訊きそびれてしまった。
「よろしくお願いいたします、サラサ様」
ネグサスはサラサの前に来て膝を突いて深く頭を垂れた。その動作を終わると、何事もなかったかのように元いた席に戻っていった。
「う、うん。よろしく頼む」
サラサはどうにも拍子抜けしてしまった。とてもではないが、アルベルトのいうような肝っ玉の太い男のようには思えなかった。
『大丈夫だろうか……』
サラサは僅かながら不安になってきた。二百の兵はありがたいものの、それを率いるネグサスには頼りなさを感じていた。
「さて、そろそろ立つがいいだろう。こうなれば一時間でも時間が惜しかろう」
「尤もです」
アルベルトに言われるまでもなかった。一時間、いや一分一秒でも時間は惜しかった。
『すでにカランブルは陥落しているかもしれないんだ』
その可能性は極めて高いのではないかとサラサは覚悟していた。そうだとすればもう一度最初から組織を作り直す必要がある。
サラサがこの時ほど悲観的になった時期はなかった。前途の暗さに嘆息しながらも、とにかく一歩踏み出すしかなかった。
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