名もなき旗のもとに③
幸いにもレンが教会名義の手形を発行してくれたので、関所などで止められることなく、順調に旅を続けることができた。エメランスを出発して数日でシュベール公の領地であるクワンガ領に辿り着くことができた。
クワンガ領は決して大きくない。エストヘブン領の四分の一程度しかなく、これといった産業もない。それでもこの領地が世間に対して聞こえがいいのは、一言で言えば『教育』の賜物であった。
クワンガ領ではその創世以来、教育に力を入れていた。しかも、それは身分の貴賎に関わらずすべての領民に対して行われ、その教育水準は帝国一位を誇った。教育の内容は単なる勉学に限らず、武芸、芸術と多岐に渡り、優秀な人材を多数輩出していった。またそれが故に各領主や貴族達の子弟もクワンガ領に留学し、人材における殷賑を極めた。
その殷賑が一時期、神託戦争のために途絶えた。とりわけ神託戦争以後は皇帝ジギアスに遠慮して多くの領主貴族がクワンガ領への留学を見送っていたが、それも最近になって元に戻りつつあるらしかった。
「シュベール公の軍隊が強いというのも頷けるな」
クワンガ領の領都クスハルへ向う道中、サラサはそんなことを考えていた。
「確かに軍事教育も質が高いと言われておりますからな」
「それもあるが、それだけじゃないぞ、ジロン。領民全てに教育が行き届いている点だ」
「ほう?」
「一個の部隊があったとしよう。隊長より下の下士官や兵卒に一定以上の教育がなされていれば、たとえ隊長が戦死したとしても下士官、兵卒が命令書の文字を読み、戦術を理解して遂行することができる。これはそうでない部隊と比べれば雲泥の差だぞ」
「なるほど……」
「言葉で言ってしまえば単純なことだが、これは凄いことだ。代々のシュベール家の当主がそれに気がついているかどうかは定かではないがな」
あの男、アルベルトなら気づいているのではないか。サラサはそんなことを考えていた。
サラサ達は何事もなく領都であるクスハルに到着した。クスハルも街の規模としてはそれほど大きくはない。領民を威圧するような高層で派手な建築物はなく、上品で質実な街並みであった。
ただ行き交う人は多い。それだけ人が集まるだけの魅力がこの街にあるということなのだろう。
「で?どうやってアルベルト殿と会われるのです?庁舎に掛け合えば、何とかなるやもしれませんが……」
「そんな必要はない。真昼間から飲んだくれている奴だぞ。行くべきところはひとつだろう」
サラサは酒場の前で馬から下りると、躊躇いなくその戸を開けた。
「やはりな……」
サラサの想像どおり、平服のアルベルトが酒瓶を片手に酒をあおっていた。酒場の主人らしき男と談笑していたが、入ってきたサラサと目が合うと酒瓶を危うく落としそうになっていた。
「久しぶりだな、アルベルト殿。お望みどおりに来てやったぞ」
「ははは!こいつは驚いたな!ここ最近つまらん政務ばかりをしていて、ようやく解放されて街で飲み歩いていたら、サラサ殿に会うとはな。今日は本当にいい日だ」
アルベルトは快活に笑った。
「親父。ちょっと席を借りるぞ。サラサ殿もひとつどうかな?」
「私は酒が飲めないんでな。果実水でももらおうか。ジロンはどうする?遠慮せずに飲んでもいいぞ」
アルベルトが移った席にサラサは向った。ジロンはやや呆気に取られながらもサラサと同じく果実水を注文した。
「それで何をしに来なさった?まさか物見遊山というわけではないのだろう?」
席に着き、注文した果実水が運ばれてくるとアルベルトが切り出した。
「単刀直入に言う。兵力を貸して欲しい。三百、いや二百でいい」
「単刀直入すぎるな……。事情を聞かせてくれ」
「そうだな……」
やむを得なかった。今後のことを考えると、やはりアルベルトには話しておいた方がいいだろう。サラサはこれまでの経緯を語り、これからエストヘブン領とコーラルヘブン領を独立させるためにジギアス相手に戦うであろうことを打ち明けた。聞いている間、アルベルトは一言も言葉を差し挟まなかった。
「なるほど……。サラサ・ビーロスは只者じゃないと思っていたが、そこまで気宇壮大だったとはな」
聞き終ってからアルベルトは、しきりに頷いた。
「すぐに返事してくれとは言わん。だが、生憎急いでいるから遅くとも明後日には……」
サラサは焦れていた。本音で言えば一刻でも早く承諾してもらい、この場を離れてカランブルへ駆けつけたかった。しかし、ここ変事を急かすのはアルベルトにも礼を失することになるだろうと思い、ぐっと我慢した。第一そんな重要なこと、いくらアルベルトでも一存では決められないだろう。
「うん、いいよ」
アルベルトはあっさりと言った。サラサは拍子抜けし、果実水の入ったグラスを落としそうになってしまった。
「本当にいいのか?」
「そのぐらいなら問題ない」
「そうじゃない。もしこのことが皇帝にばれたら反逆罪だぞ」
「これから反逆罪を起こそうとしている人がそんなこと言っても説得力ないな」
「私とアルベルト殿では立場が違う」
「確かに違うな。だが、それでも貸すと言っているんだ。その意味、お分かりか?」
サラサは即答できなかった。この男なら、伊達と酔狂で貸すんだとか言い出しそうだが、酔っている割には目は真剣であった。
「神託戦争以後、世の中は乱れている。いや、神託戦争自体が世の乱れと言っていいだろう。しかもその乱れは収まることを知らない。これは古き世が終わり、新しい世が始まることの象徴だと思わないか?」
「それが私に兵を貸す理由か?」
「不服かね?」
「私に何を望む?大それたことを望まれても、私は単なる十四歳の小娘だぞ」
「さてね。大それた存在になるかどうかは、サラサ殿、あなた次第だ。俺はただあなたのやることに手を貸したい。それだけだよ」
但し条件がある、とアルベルトは言った。
「条件?」
「そうだ。俺の親父に会ってやってくれ」
アルベルトの瞳は決してふざけてはいなかった。サラサはその眼光に圧倒され、深く考えることなく頷いてしまった。
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