暗転⑧

 「マグルーン!マグルーンに会わせて頂戴!」


 エストブルクの郊外。囚人の収容塔にこだまするのは、つい先頃までエストヘブン領で権勢を誇っていたネクレアの叫びであった。


 エストヘブン領に進駐してきた皇帝軍によって帝国内乱罪で逮捕されたネクレアは、マグルーンと引き離され、この収容塔に移されたのであった。


 数日前まで生活をしていた広大な部屋の数十分の一しかない狭い牢獄には小さな窓がひとつしかなく、常に薄暗くて空気も淀んでいた。寝台と呼べるものはなく、ござが一枚敷かれているだけで、便所も床に開いた穴があるだけであった。非常に劣悪な環境であるといえた。


 しかし、ネクレアはその劣悪な環境など気になっていなかった。彼女にとっては最愛の子マグルーンに会えないのが最大の苦痛であり、劣悪な住環境など眼中にも入っていなかった。


 「私を誰だと思っているの!早く出しなさい!マグルーンに会わせなさい!」


 囚われて以来、ネクレアは叫び続けた。叫び続けて力を使い果たしては寝て、叫ぶための力を蓄えるため出される食事を貪り食った。この日も、敬虔な司祭の行の様にネクレアは毎日の日課を行っていた。


 「陛下のおなり!」


 塔内にそんな声が響き、ネクレアは黙った。やがて鉄格子の前に精悍な青年が姿を見せた。皇帝だ、とネクレアは思った。


 「陛下!陛下でございますね!どうかここからお出しになり、マグルーンに会わせてくださいませ」


 「なんだ……爺を誑し込んだ美女だと聞いていたが、ただの年増じゃないか」


 皇帝から発せられた言葉にネクレアは絶望を感じた。この男は、自分を助けに来た救世主ではなかったのだ。それでもネクレアはこの男に許しを請わなければならなかった。


 「陛下。どうぞこの牢屋からお出しください。私とマグルーンはこのような境遇に陥る覚えなどありませぬ」


 「内乱罪。次期領主を巡ってくだらぬ無用な戦争をした。十分に罪となる」


 「それは陛下がマグルーンを次期領主にする勅状をくださらないから……」


 「自分の無能を棚に上げて俺のせいにするか……。しかも、数の上で有利にも関わらず戦に負け、あまつさえ相手を会談の場で刺殺するとはな。根性の腐った奴はとことん腐っているな」


 そういう奴が俺は嫌いだ、と言ってジギアスは鉄格子を蹴った。激しい音が鳴り、ネクレアはひっと短い悲鳴を上げた。


 「気がついたか?跡取りを決めないままの後継者の争い。まるで俺が帝位についた時と同じだ。だから、その争いに勝った才幹のある者こそ領主に相応しい。そう思ってじばらく様子を見ていたが、実にくだらぬ結末だった」


 「やはり、争乱の罪は陛下にあるのではないですか!」


 「はははっ。そうかもしれんな。だが、恨むべきは自らの無能と知れ。才幹がないのなら、一生日陰で生きるがいい」


 「陛下!それはあまりにも無慈悲でありましょう!」


 「無慈悲と言う言葉もお前の口から出れば安っぽくなるな。アズナブールを騙まし討ちにした人間がよくもそんなことを言えるものよ」


 「あれは、アレクセーエフなる天使が……」


 「今度は天使のせいか。はは、お前は空想小説家にでもなればよかったな。そうすれば、多少の金が稼げただろう」


 ジギアスは、高笑いしてネクレアに背を向けた。


 「陛下!何卒お願いでございます!私の身はどうなっても構いません。マグルーンだけは……マグルーンをせめて陛下の近習として……」


 「俺の近習だと?笑わせるな。母親の尻に隠れてばかりの小僧に俺の近習が勤まるものか……」


 ジギアスは一度振り返った。嗜虐的な笑みを浮かべていた。


 「そうだな。マグルーンは牢から出してやろう。そして庶民に身を落とし、世に放ってやろう。あの小僧にひとりの人間として生きる才幹があれば生き残るだろうし、なければのたれ死ぬだけだ。はははは、これは面白い」


 「いやぁぁぁぁぁぁぁ!」


 ネクレアは悲鳴を上げ失神した。それを見届けたジギアスはからからと笑いながら去っていった。




 「惨めなものよな。あれほど豪奢な生活をしていたのに、今や牢獄暮らしとは……」


 その不愉快極まりない声によって失神から目覚めたネクレアは、怒りに満ちて声の主を見据えた。


 「アレクセーエフ……」


 「そんな幽鬼のような目で見るな」


 「この腐れ天使!貴様がアズナブールを刺せと入れ知恵しなければ!」


 「今頃のこの土地はアズナブールのものだっただろうな。私としたことがしくじってしまった。最初からアズナブールについておればよかった。そうすれば、皇帝の介入などなかっただろうに」


 「何を言っている……。貴様の目的は何だ?」


 「ふふ、さてね。ま。目的のひとつは果たした。ご苦労だったな、ネクレア。せめてもの情けだ。私の手で葬ってやろう」


 「……!」


 アレクセーエフの右手がネクレアの喉を貫いた。ネクレアは悲鳴ひとつあげることなく絶命した。


 「息子も誰かが手を下すまでもなく、お前の下へ行くだろう。泉下で精々仲良くすることだ。さて……コーラルヘブンを得るのはもう少し先になるか。あの女が放った光のことも気になる。ひとまず戻るとするか……」


 アレクセーエフは小さな窓から夜空を眺めた後、倒れているネクレアに目をかけることもなく、牢獄から姿を消した。




 ネクレアの死から二週間後、エスティナ湖の湖畔で少年の水死体が発見された。それが市民に身分を落とされたマグルーンであると知れるのは、発見からさらに二日後のことであった。


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