暗転⑤
会談の場はすでに収拾が付かぬほど戦闘が繰り広げられていた。
武器が入ったことで単なる殴り合いから一転し、さっきまで和気藹々としていた両陣営の兵士達は憎みあい、殺し合いが始まった。
ミラはその戦闘に参加していなかった。まだ暖かいアズナブールを背負いながら、戦場と化した会談の場を逃げ惑っていた。アズナブール派の兵士達は、ミラの意図を察してかミラを守るように戦ってくれたが、それでもミラもいくつか傷を負った。
『意地でもバスクチに戻らねば……』
アズナブールを背負い、自らも流血していることで体力が奪われていく。それでもミラは、たとえ自分の体内の血が一滴残らずなくなってもアズナブールを背負ってバスクチに戻るつもりだった。
天幕を逃げ出したミラは、脇目もふらず北へと走った。歩いてでも這ってでも北さえ行けば、バスクチに戻れる。
「ミラァ!」
ミラの名を叫ぶ声がした。その方向を見ると、馬の手綱を握ったレジューナがいた。
「レジューナ様……」
レジューナは馬を取りに行っていたようだ。彼の全身も血まみれになっていた。敵を切り倒し、馬を調達してきたのだろう。
「乗れ、ミラ。アズナブール様を敵に渡すわけにはいかん」
レジューナは、縄を使ってミラと背負われているアズナブールを固定した。
「レジューナ様がお使いください。私は剣をお借りして戦場に戻ります」
「駄目だ。私の巨体では馬を疲れさせる。極力軽いほうがよい」
さっさと乗れ、と温厚なレジューナらしからぬ迫力のある声が飛んできた。その迫力に押されレジューナは馬に跨った。
「ミラ……。もしアズナブール様が目覚められたら謝っておいてくれ。このレジューナ、無能ゆえにご迷惑をお掛けしましたと。もし目覚めなければ、泉下でお詫び申し上げる」
いけっ、とレジューナが馬の尻を叩いた。馬は嘶き、猛然と駆け出した。ミラが振り向くと、深々とお辞儀をして戦場へと駆け出すレジューナの姿があった。
馬はミラとアズナブールを背負いながらも、休むことなく北へと疾走している。
流血と振動のせいでミラの体力はみるみるうちに奪われていく。それでも手綱だけはしっかりと握っていた。
幸いなことに追っ手が迫っている様子はない。レジューナ達がよく防いでくれているのだろうか。そうであって欲しい、とミラは混濁とした思考の中で思った。そうでなければ命を賭して自分とアズナブールを逃がしてくれたレジューナ達の行為が無為に終わってしまう。
『なんとしてもバスクチに辿り着かねば』
たとえ事切れても、馬さえ自分たちを乗せてバスクチに辿り着いてくれればいい。ミラは手綱を握る力を一層強めた。
やがて揺れるミラの視界にバスクチ近辺の山岳風景が飛び込んできた。これでなんとかなる。そう安堵した時であった。ミラが乗る馬の脇を何かが通り過ぎていった。
ミラを乗せた馬も相当の速度で走っている。しかし、それを上回る速度で馬を追い抜いていった。あまりの速さにミラはそれが何であるかを視認することができなかったほどだ。
そして、それは速度を落とし、ミラのやや前方に出た。大きな白い翼を二つはためかせながら、馬に速度を合わせて飛行していた。
『天使……』
いくら意識が朦朧としてきているとはいえ、間違うはずがなかった。この世界で白い翼を持ち、飛行できるのは天使以外に存在しなかった。ミラはそれほど敬虔ではなかったが、この時ばかりは困難な状況にあるミラに天帝が使いを差し向けてくれたのだと思った。
「あの混乱から抜け出していたとは……」
ぞくりとするほど冷たい響きのする声であった。その天使の右手の爪が鋭く伸び、刃物のようにぎらりと光った。
「悪く思うな。これもあの女の失態だ。恨むならあの女を恨め」
天使が何事か言いながら、長い爪を振り上げてこちらに迫ってきた。この時になってミラは襲われているのだと気づいた。
「……!」
ミラは渾身の力を振り絞り手綱を引っ張った。しかし避け切れず、天使の爪は馬の顔面をえぐった。馬は断末魔の声を上げ、ミラとアズナブールを振り落とし、横転した。ミラは地面に打ち付けられたが意識はあった。離れたところで体を痙攣させながら絶命していく馬の姿がやけに鮮明に見えた。
「どうして天使様がこんなまねを……」
ミラは立ち上がろうとしながらも、天使を睨みつけた。天使は悪びれた様子も見せず、歩いてこちらに向ってくる。
「貴様ら人間が天使をどのように思っているか知らんが、それは勝手な幻想だ。我らには我らの役目というものがある」
何を言っているのかさっぱりと分からなかった。しかし、それを問いただす気力も体力もミラに残されていなかった。
「悪いが死んでもらう。精々、魂が安楽に過ごさんことを祈ってやる」
立ち上がることを試みていたミラであったが、それは叶わなかった。アズナブールの体が重石のようになり、足元から滑るように前のめりに倒れた。ミラは覚悟した。
『アズナブール様、申し訳ありません。サラサ様、約束を果たせず申し訳ありません……』
無事に帰れるようにとサラサが渡してくれた水晶の首飾り。そのまじないの効果があるように首にかけていたのだが、どうやら無理であったらしい。途切れそうになる意識の中、ミラは慙愧の念に駆られながらも、最後の望みとばかりに水晶の首飾りに祈った。
『やはり私は戻りたい!サラサ様の下に!』
ぱっと胸元から光が広がった。ミラの胸の間でサラサから借りた水晶が眩いばかりの光を放ち、ひとりでに揺れていた。
「この光は……。ぐわっ!」
ミラに止めを刺そうと近づいてきた天使であったが、水晶が発する光に触れた途端、叫びをあげて退いた。ぐうぐうと唸っているので見てみると、右腕が炎に触れたかのように焼け爛れ、例の鋭い爪もいつの間にか失われていた。
「貴様がどうしてその光を……。よもや……」
独り言を言いながらも、天使の顔は一転して青ざめていた。
「相手が悪いか……。仕方あるまい」
天使は焼け爛れた右腕を左手で押さえながら天使は翼を広げて飛び去っていった。まるで訳が分からなかったが、兎も角も助かったのだと理解したミラは、安堵のあまり途絶えそうになってしまう自分の意識を奮い起こし、這う様に一歩一歩北へと進んでいった。
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