少年は旅をし世界を知る③

 「ブラシスってのはよほど人望があるんだなぁ」


 カップフェルトの町へ急ぐシードの後ろを相変わらずエルマがついてくる。ただ歩くだけなのが退屈なのか、やたらと話しかけてくるが、シードは無視し続けてきた。


 「かぁぁぁっ!善人ってのは話を聞いているだけで虫唾が走るな」


 だから絶えずマ・ジュドーとかいう球体と受け答えをしている。腹話術のはずなのに、まるで違う二人の人が話をしているようだった。


 「善人ってのは二通りの人間に分類されるんだ。馬鹿がつくほどのお人よしか、過去に後ろめたいことがあるか、どっちかだ」


 エルマが断定的に言った。尊敬するブラシスが馬鹿にされたみたいで腹が立ったが、シードは黙々と歩き続けた。


 「じゃあ、お嬢の見る限り、あの司祭はどっちなんだよ」


 「さあな。どっちでもいいや。しかし、人に優しくして人望が得られるのなら、私も善人になろうかね」


 「おうおう、嘆かわしいじゃねえか。お嬢なら暴力で従わせるのが性分じゃねえのかよ」


 「はん。力ずくこそ私の性分じゃねえよ」


 人を無理やり拉致して何を言っているんだ。シードの憤りは沸点に達しようとしていた。


 「いい加減にしてください!どうしてついてくるんですか!」


 シードは振り向き叫んだ。エルマは目を丸くして立ち止まった。


 「へぇ。そんなでかい声出せるんだな」


 「馬鹿にしないで答えてください。どうしてついてくるんですか?」


 「どうしてって言われてもなぁ。私もこっちに用事があるんだよ」


 にやにやしているエルマ。きっとシードの反応を楽しんでいるだけに違いない。


 「用事って何ですか?」


 「何でもいいだろう。私はたまたまお前の後を歩いているただの旅人なんだから」


 「人のことを奴隷にするとか言っていたじゃないですか?」


 「おっ。ついに奴隷になる気になったかい?」


 「なりません!」


 やっぱり相手をしても口では勝てそうもない。再度無視を決め込もうとエルマに背を向けようとした時であった。


 「危ない!」


 突如、エルマが跳躍し、シードを押し倒した。


 何をするんですか、と抗議の声をあげる間もなかった。今までシードが突っ立っていた所をしゃっと黒い影が掠めていった。


 「ちっ!色気のないことをしてしまったぜ」


 などと口走りながらエルマはすぐにシードを解放し立ち上がった。シードも立ち上がり、黒い影の正体を捜した。そいつは、少し離れた草むらいた。


 全身をつやのある黒毛に覆われた四本足の獣。全長はシードの倍近くはあるだろう。犬や狼のような風貌をしながらも、口の両側からむき出しになっている長く鋭い牙が、犬や狼以上にその生物が凶暴であることを示していた。うーうーと唸り声をあげながら、こちらを警戒するように目を光らせていた。


 「魔獣じゃないか……」


 シードは恐怖を感じながらも、その言葉をようやく口にできた。


 魔獣。千年前の聖戦の折、悪魔が使役していた獣で、聖戦終了後にその生き残りが野生化し、現在の姿になったと伝えられている。


 「サーベラってやつだな」


 何がおかしいのか、エルマはニヤッとしていた。恐怖を感じている様子は微塵もなかった。


 「あれがサーベラ」


 シードはその名前を書物でしか知らなかった。雑食で獰猛。基本的に群を成さず、一匹で行動することが多いらしい。腹を空かせればどんな生物でも襲って食するという。エルマが助けなければ、今頃シードの頭部はあのサーベラの口の中にあっただろう。


 そう考えると恐怖でいっぱいになり、シードは完全に立ち尽くした。しゃがみ込んで泣き出したり、失禁しなかったのは、せめてもの男子の矜持といったところだろう。しかし、絶体絶命なのは間違いない。


 「へへ、どうするんでい、お嬢?」


 「ちょうどいいや。シードに私のかっちょいいところを見せて、惚れさせてやるとするか」


 指を鳴らしながら、恐れることなく、サーベラに近づいていくエルマ。


 「危ないですよ!」


 シードは注意するが、エルマは臆することなく歩みを止めない。サーベラは、そんなエルマの大胆不敵な態度に困惑しているのか、一歩二歩と後退していく。


 「はん。しおらしいじゃないか。そのまま引き下がってもいいんだぜ」


 エルマの言葉を理解したわけではないだろう。が、サーベラは、後退するのをやめ、エルマに向かって駆け出した。


 「エルマさん!逃げて!」


 「逃げる?馬鹿を言いなさんな」


 サーベラが大きく口を開け、エルマの頭部に噛み付かんと地面を蹴った。


 「逃げるってのは私が一番嫌いな言葉なんだ!」


 エルマはあろうことか飛び掛ってくるサーベラの二本の牙を両手で掴んだ。勢いのついていたサーベラの体が上に向って回転しようとする。


 「覚えておけ!」


 エルマはその勢いを利用してサーベラの体を投げ飛ばした。ぎゃん、と悲鳴を上げたサーベラの二本の牙は根元から折れ、飛ばされた体は近くにあった木に激突した。そのまま地面にどさりと落ちたサーベラは、すぐに立ち上がったが、四本の足は震えていた。


 「けっ、大したことねえな」


 サーベラからもぎ取った二本の牙を興味なさそうに投げ捨てたエルマは、ずんずんとサーベラに歩み寄った。サーベラは逃げ出そうと体を反転させた。


 「逃がさねえぜ!」


 今度はエルマが跳躍する番だった。すでに獣の本能を失ったサーベラの背中に容赦なく飛びつき、地面にねじ伏せた。


 「おらおら!」


 容赦というものがエルマにはなかった。すでにぐったりとして動く気配のないサーベラの頭部を執拗に殴りつける。サーベラの頭蓋骨は完全に陥没し、血が噴出していた。いくら魔獣とはいえ、あまりにも残酷でかわいそうになってきた。


 「エルマさん。もう死んでいるんじゃないですか?」


 「シードはものを知らないなぁ。魔獣は普通の獣と違って生命力が強いから頭を砕かない限り生き返るんだよ」


 シードは、はっとした。そういえば以前にブラシスからそんなことを教えてもらったような気がした。


 「悪魔の常識だ。覚えておけ!」


 最後の一撃と言わんばかりにエルマが大きくこぶしを振り上げた。正視に堪えられなかったシードは目を背けた。ぶしゃっと固めの果実が砕けるような音がした。


 「ふう。一丁完了」


 ぱんぱんと手を払うエルマだったが、そんなことでは落ちそうにもないほど彼女の手は血だらけになっていた。いや、手だけではなく、顔や服にもサーベラの返り血がついていた。


 「ありがとうございます。助けてもらって……」


 「いいってことよ。それよりも随分と汚れたな」


 自分の姿を見たエルマは、衣服を脱ぎ始めた。


 「な、なな、何をしているんですか!」


 「あん?体洗って着替えるに決まっているだろう。まさか、この格好のまま町へ行けって言うのか?」


 「そうじゃなくてですね……」


 そんなことを言っているうちに、エルマは素っ裸になっていた。シードは再度目を背けざるを得なかった。単にシードが弄ばれているのか、それとも羞恥心など元より持ち合わせていないのか……。


 「そこに川があるし、ちょうどいいじゃねえか」


 そう言いながら川辺に向かうエルマ。シードからすればエルマから逃げ出す絶好の好機であったが、まともな思考が働かないほどシードの心はかき乱されていた。

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