前兆・予兆・プレリュード 1
セラフィーナたちがダンスレッスンを始めて数日が経過したある日。
未だ朝霧が港内に立ち込める夜明け早々に、タグボートに押されながら波音を立てて港内に入港する、大型船のシルエットがあった。
立ち込めるミルク色した深い霧を切り裂くように霧笛が何度も鳴り響き、これ見よがしにがなり立てて大型船の存在を港の隅々までにアピールする。
港内で移動するうえで安全上必要な行為ではあるが、汽笛が周囲に反響するために騒々しいことこのうえない。
当然それは、トリートーンの乗組員にも当てはまる。
「また霧笛かよ。こんな朝っぱらから煩いな」
当直のカイルが顔を顰めながら耳を押さえて、波音を立てて入港する大型船を睨みつける。
煩いのを我慢するのはさておき、近傍を通過する船に注意を払うのは当直として当然の仕事なのだが、カイルとしては注意を払うだけではなく切実に願うことがあった。
「頼むからこっちに来ないでくれよ」
心の中で手を合わせて、大型船が奥の埠頭にやって来ないことを切に願う。
理由はカンタン、面倒ごとが増えるからだ。
港では新たに周囲に係留される船があった場合、その都度確認して船長もしくは掌帆長に報告することになっている。
隣同士で無駄な軋轢を防ごうというのが目的で、いうなればお隣さんの下調べだ。
船長不在のトリートーンの場合、届け出る相手は掌帆長のランドールだが、こんな早朝にベッドから叩き起こして報告したらどんな目に遭うのやら……想像するだけで気が重い。
「でも、報告しなきゃ下手したら鞭打ちだしな~」
報告漏れで生じたトラブルを咎められ、背中に鞭をうたれる様を想像して身震いする。
何しろ下手に貴族の船と隣同士にでもなると取り扱いが大変だ。
相手はプライドの塊だけに、どこに琴線やら逆鱗があるのか分かったものじゃない。触らぬ神に祟りなしとは正にこのこと。
そもそもトリートーンが港の最奥部に係留していていたのも、外洋に出る機会が減ったことだけでなく、この厄介ごとを避けていたのも理由の一つである。
「こんな早朝にわざわざタグを呼び付けて港に押し入ろうなんてどんな船だ?」
ため息つきつつひとりゴチていたら「うん、ありゃなー」と、横から不機嫌を隠さない眠たそうな声。
「王国海軍の船だな。艦影からみて、多分ビスマルクだろう」
いつの間にいたのか。
カイルがふと横を見ると、尻をボリボリと掻きつつ、声と同様眠たそうにランドールが隣に立っていた。
「お、お早うございます。ランドールさん」
報告する相手が起きてきたので、慌てて姿勢を正すと「早朝から堅苦しいことするな」と逆に諫められる。
「朝っぱらからタグの外輪と無駄な波音を聴かされたら、嫌でも目が覚めちまうさ」
外輪を忙しなく回して騒音をまき散らすタグボートを睨みつけるランドールに、カイルは変なとばっちりが来ないよう「ご愁傷様です」と宥めるように労う。
「タグボートは蒸気機関が載っているから音が大きいですもんね」
したり顔で「仕方がない」と頷くが、強制的に起こされたランドールが「安眠妨害だ」と毒づく。
オールも漕がず無風でも活動できる蒸気船は、港内での係留作業には最適だが、如何せん音が大きくはた迷惑なことこの上ない。
「こんな時間に接舷しなくても、陽が昇るまで港外で錨を降ろして待ってりゃいいんだよ」
幸いにして今日は波が静か。港外で停泊しても錨走するようなことは無いはずだとランドールが指摘する。
「でも、直ぐそこまで来たら陸に上がりたいからでは? 船乗りの性として」
陸が恋しい気持ちは分かるからとカイルが言うと「割増料金を払ってまでか?」と、当事者でもないのに理不尽に噛みつかれた。
ボイラーの圧力が上がるまでは機関が動かないこともあって、タグボートが早朝に活動することは滅多にない。そんな時間に仕事をさせるとなると、当然相当な割増料金を必要とする。
「商船だったら、急ぎの荷があるとか余程のことがなきゃ、割増料金の発生する時間にはタグボートを呼んだりなんかしない。軍艦だってムダな出資だと軍務卿が渋い顔をするだろうな」
「シビアですね」
地獄の沙汰も何とやら。世知辛くとも、それが現実かとカイルが納得しかかると「ただし、世の中には例外が存在するからな」と苦虫を噛み潰す。
「何ですか、その例外って?」
「貴族だよ、貴族。連中ならゴリ押しもまかり通る」
道理もへったくれもないとランドールがぼやく。
「ビスマルクのクラスだと、ゼッタイにお貴族様の将校が乗っているからな……コイツは面倒なことになるな」
タグボートに押されて晒した船腹を見つめながら、心底鬱陶しげにランドールが呟いた。
「貴族さんが乗っていると面倒なんですか?」
水夫になって経験が浅く実感が湧かないカイルが尋ねると「格式やらなんやらをひけらかして、色々面倒くさいんだよ」と、遠い目をしながら察しろとばかりに答えが返る。
そうなのか?
「でも、お嬢さんはそんな風に見えないけど」
多少高飛車なところはあるが、貴族風を吹かしたことは1回もない。
「あれは、例外だ」
「そうかもですね」
まあ、下っ端としては関わらなければ良いだけの話。
雑談の間に宿直明けの時間にもなったことだし、これで一抜けとばかりに「それじゃ、オレはこれで」と船室に戻ろうとした途端。
「カイル!」
不意に、寝ぼけた表情を捨て真顔になったランドールが呼び止める。
「オマエ。この後の半舷休息は取りやめな。他の奴にも休息は中止しろと言っておけ」
ご無体な宣告。
「そんな~」
恨めし気にランドールに縋るが「面倒対策だ」とにべもない。
「絶対に厄介なことがやってくるからな」
「もうすでに疫病神になっていますよ」
休暇が潰れたことを愚痴りながら、舫を放ち隣の埠頭に接舷準備をするビスマルクをカイルは忌々しげに睨みつけた。
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