送り火
國枝 藍
征ちゃんのこと
ある夏の日の記憶だけが、いつまでも変わらない明るさでそこにある。
西日の差す縁側でびっしょりと汗をかいて昼寝から覚めた夕暮れ。錆びた銅の風鈴の音とテレビから聞こえてくる甲子園のサイレン。征ちゃんは仰向けの私の顔を覗き込むようにして、
「よっ」
と悪戯っぽく笑った。
「あ、おかえり」
「ん、これおみやげ」
バットで叩いて割ったみたいに雑な切り分けのスイカを受け取って、私は身体を起こす。
「いっつもスイカじゃん」
「まあな、そこのスーパーで買ってるから」
こういうのは気持ちなんだよ、とか一人でぶつぶつ言いながら、征ちゃんは自分の分のスイカをあっという間に食べ切った。
「今回はどこ行ってたの?」
「アフリカの方。ギニアとか。知ってる?」
「聞いたことある」
少し涼しくなった風がなぞるように縁側を吹き抜けて、征ちゃんはどこからか迷い込んだ真っ白な猫の喉を優しく撫でている。
父の弟――私にとっては叔父――だった征ちゃんは自由人を絵に描いたような人で、どこから沸いたのか分からないお金で世界中を旅しては、たまにこうしてふらっと私たちの家に帰ってくるのだった。
「いつまでいるの?」
「んー、2、3日」
「もっとゆっくりしてけばいいのに」
母を真似て私が言うと、
「ん、まあ俺は旅人だからな」
と征ちゃんは答えた。ごろんと寝そべりながら、だらしない居候みたいな口調で。
いつのまにか、猫はいなくなっていた。
「じゃあさ、来年はスイカじゃないおみやげにしてよ。なんか行った先の名産とかさ。あるでしょ? そういうの」
「まあ考えとくよ」
「絶対だよ? 約束」
「まあ来年帰ってくるか分かんないけどな」
指切りしようと出した私の手に、征ちゃんは面倒そうに口癖で返す。
でも、征ちゃんはきちんと毎年お盆の時期に帰ってきた。生存報告くらいしろって兄さんに怒られるから、なんて言ってたけど、きっと私たちの家が征ちゃんにとって居心地のいい場所だったんだと思う。もしそうだったならよかったなって私は思う。人は居場所を探して旅をするんだっていつか征ちゃんは言ってたから。
* * * * *
「じゃあ、そろそろやるか」
父がテレビを消して言うと、
「そうね」
と母も腰を上げた。
私は一度部屋へと戻り、腕と足に虫除けスプレーを吹き付けてから外へ出る。
いくら夏とは言っても八時を過ぎるともうすっかり暗くなっていて、昼間の騒がしさは消えていて、遅れたように鳴く蝉の声が僅かに聞こえるだけだった。
父はそっと門を開けて、皿の上に組むように並べたおがらにマッチで火を点ける。
「気をつけて帰るんだよ。急がなくていいからね。でも寄り道しないでまっすぐ帰るんだよ。あんまり遅くなるとみんな心配するから」
毎年お盆は父がひどく無口になって、母はその沈黙を嫌うようによく喋る。でも口数とは見合わない、しんみりした気怠げな口調で。
「迎え火はこないだ夕方に焚いたでしょ? 迎え火はみんな待ってるよ、早く帰っておいでって早い時間に焚くの。それで送り火は少しでも長くいてほしいから遅く焚くの。まあでも、征ちゃんがそんなにゆっくりしていってくれる感じはしないけどね。行ってきますも言わないで気付いたらいなくなってる、みたいな人だったから。せめて夕飯くらい一緒に食べてから帰ってくれるといいのにね」
「さみしくなっちゃうから苦手だったらしいよ。そういうの」
いつか聞いたことを私が言うと、
「征ちゃんらしいね」
と母はやっと小さく笑った。
穏やかだった火がにわかに勢いを増して、父と母はそれに向かって手を合わせる。
私たちは人生のある時点で誰かと出会って、何かを交換して、そしてその誰かを失っていく。それはほんとうに一瞬の出来事で、かけがえのない、なんて言えるほど仰々しいものではないのだけれど、私の内側を丁寧に分解していくと、きっとそういう瞬間がたくさん集まって私という人間ができていることに気付く。
征ちゃんの女みたいに高い声、笑うとできる深いえくぼ、ひどい猫背の後ろ姿。二人で遠くの海まで歩いたこと、私が乗れるようになるまで何時間も自転車の後ろを支えてくれたこと、いつか私が大きくなったら一緒にどこかへ旅をしようと言ってくれたこと。
私は今それを息を吸うように思い出して、しばらくの間だけそっと息を止めて、そしていつかきっと息を吐くように忘れていく。
「征ちゃん、また来年ね」
細く立ち昇った送り火の煙は、遥か遠くの星空に吸い込まれるようにして消えていく。
「まあ来年帰ってくるか分かんないけどな」
きっと征ちゃんは言うだろう。でもどうせ帰ってくるのだ。でっかいリュックを背負って、スーパーで買ったスイカを持って、「よっ」なんて悪戯っぽく笑いながら。
送り火 國枝 藍 @willed_ai
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