第175話 クソガキカフェへようこそ
1
雨がしとしと降っている。
夏の夕立のように、ざぁっと降るわけでもなく、春の雨のように雷を伴うこともない。
降っていることを申し訳なく思うような、物静かな雨だ。
「……降ってんなぁ」
いつの間に降り始めたのだろうか。幸い、折り畳み式の傘を持っていたので、帰ることに問題はないが。
「さ、さみぃ」
自転車を押しながら、雨の中を歩く。
冬なのだから、寒いのは当たり前である。が、普段の刺すような寒さとはまた異なる、ひんやりとした冷気が満ちている。
薄暗い空から降り注ぐ無数の雨粒。傘に落ちる単調な音に混じって、どこからか原付の排気音が聞こえてきた。
冬の雨は、どうしてこうも寂しく感じるのだろうか。
早く家に帰って暖かいココアを飲みたい。その一心で足を速めたら、突然横殴りの風が吹いて雨に襲われた。
「うおっ」
さほど濡れたわけではないが、それでも水滴の冷たさは体に沁みる。
「ふう、ただいま」
店の方から帰宅する。中は暖房が効いていて、冷えた体がじんわり温められる。荷物を空いているテーブルに置き、母に声を投げる。
「おーい、ココア作ってくれよ」
店で飲む場合は従業員割引の安い値段でプロの味を飲めるので、インスタントのものを自分で作るよりいい。
すると母は天井を指さし、
「お客様、ご注文は二階で受け付けております」
「はぁ?」
いったいなにを言っているんだ。
「いやいや、だからココアを――」
「勇にぃ! 帰ってきたー?」
階段の方から未夜がやってきた。
「おう、来てたのか……ってなんだその格好」
未夜は頭に赤いバンダナを巻き、〈ムーンナイトテラス〉の子供用のエプロンを身につけている。
「早く上行こー」
「待て待て、先にココアをだな」
「上でやってー」
「はぁ?」
未夜は俺の手を引き、強引に二階へ連れて行く。
「あ? なんだこりゃ」
俺の部屋の前には、段ボールと画用紙で作られた看板が待ち構えていた。〈ムーンナイトテラス 二かいしてん〉と、クレヨンでカラフルに書かれており、折り紙製の花や月で飾り付けられている。
未夜はドアを開いて、
「一名様ご案内でーす」
2
俺の部屋の様子は一変していた。
壁は折り紙で作ったペーパーチェーンで飾り付けられ、雰囲気を出すためか入口の手前に観葉植物が鎮座していた。あれはたしか二階のリビングにあったものだ。CDラジカセからは女児向けのアニメ主題歌が流れており、テーブルの真ん中にはなぜかランタンが置かれている。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
未夜と同じバンダナにエプロン姿の眞昼と朝華が、ちょこんとお辞儀をした。
ここまでくれば、クソガキたちが何をやり出したのかは理解できる。
「おめぇら、今度は喫茶店ごっこか」
「ごっこじゃないよ、ここは〈ムーンナイトテラス〉の支店だもん」と未夜が言う。
「同じ住所じゃねぇか」
やれやれ、いったい今度はどんなテレビ番組に影響されたのだろうか。喫茶店ごっこがしたいのなら一階の店でやればいいのに、わざわざ俺の部屋を喫茶店に改装してしまうとは。
「お客様、こちらへどうぞ」
眞昼に促され、俺はテーブルの前にあるリクライニングの座椅子に腰を下ろした。これも本来はリビングにあるものだ。
「こちらおしぼりでーす」
朝華がおしぼりを手渡す。これは店の方でいつも使われているものである。なるほど、父も母も協力済みというわけか。母が二階で、といった意味が分かった。
テーブルの上には画用紙で作ったメニュー表があり、それを開くと、喫茶店らしいメニューが手書きで記されていた。
「さぁさぁ、どれにする?」
未夜が期待に満ちた目を向ける。
「えっと、とりあえずココアを」
「ココア一丁!」
未夜が声を張る。
「へい、ココア一丁」
オーダーを受けた眞昼は、素早く部屋を出ていく。ややあって、銀のトレイにココアの入ったカップを載せ、慎重な足取りで戻ってきた。
「お待たせしました、シェフの気まぐれココアです」
カップもトレイも店で使っているものだ。
「おお、ありがとう」
味も飲み慣れた父のココアの味である。どうやら注文されたドリンクを作っているのは一階の両親たちのようである。まあ、そこは当たり前といえば当たり前か。
「お菓子もありますよ」
朝華に言われ、俺は次のページをめくる。そこにはポテチやクッキーなどの軽食メニューが並んでいた。
「えっと、じゃあ、このクッキーセットを」
「クッキーセット、入りましたー」
「はい、ただいま」
今度は未夜が出ていく。やがて、紙皿に盛られたクッキーが運ばれてきた。これは市販のクッキーを何種類か盛り付けたものだ。
クッキーをつまみながらココアを飲む。
ほどよい甘みとぬくもりが、存外リラックスさせてくれる。
ココアが空になるのを見て、眞昼が次の注文を促す。
「お客さん、次はなんにしましょう」
「んー、そうだな」
俺は再びメニューを開く。
本当はもっと温かいものを頼みたいが、飲み物を運びながら階段を上ることを考えると、万が一落とした時に火傷をする恐れがある。
「じゃあ、このホワイトカルピスのサイダー割りを」
「へい、カルピスサイダー入りました」
「喜んで!」
今度は朝華が部屋を出ていく。
「喫茶店ごっこ楽しいな」
「ねー」
やれやれ、この分だとこいつらが満足するまで飲み食いさせられそうだな。
*
予想通り、俺のグラスが空になるたびに、クソガキたちは新たな注文を要求してきた。冷たいドリンクを何杯も飲まされたおかげで腹がたぷたぷになってしまった。
朝華が俺の横に座り、猫なで声を出す。
「お客さぁん、私もドリンク頂いていいですか?」
「お前、それは違う店のやつだぞ」
そんなこと、どこで覚えてきやがったっ!
「あたしも」
「私も」
「ああ、いいよ。好きなもん頼め」
「わーい」
「わーい」
「わーい」
いつの間にか、喫茶店ごっこはただのおやつパーティーに変わってしまった。室内を喫茶店風に改造されたことと、パフェやパンケーキなどの普段とは異なる〈ムーンナイトテラス〉の豪華なメニューが卓上を埋めていることを除けば、いつも通りの光景である。
「そういえば勇にぃ、今日は自動車の学校あるの?」
未夜がいちごパフェを食べながら尋ねる。
「いや、今日は休みだ」
「じゃあ遅くまで遊んでもいいですか?」
朝華は俺を見上げる。
「いいけど、暗くなる前に帰るんだぞ」
しかも今日は雨が降ってるからな。長居はさせない方がいいだろう。
「はーい」
「はーい」
「はーい」
それから俺たちは、いつものようにゲームをしたりテレビアニメを見たりしながら遊んだ。
3
クソガキたちをそれぞれの家に送り届け、帰路につく。雨の勢いは弱まってはいたが、それでもまだ少しぱらついていて、肌寒い
「ふぅ」
まだ腹が張っている気がする。甘ったるいものを食って飲んで、今日はもう夕食は入らないかもしれないな。
そういや、あの観葉植物、俺が戻さないといけないのか。めんどくさいな、と後片づけを憂いながら家に到着した。
「ただいま。今日は晩飯ちょっとでいいよ」
俺が階段に向かいながらそう言うと、母は一枚の紙きれを差し出した。
「ちょっとちょっとお客さん、伝票忘れてますよ」
「は?」
「お会計は小遣いから引き落としますか? それとも
ちょっと待て。
「え? 俺が払うの?」
「そりゃそうでしょう」
「いやだって、いつもあいつらにジュースとか作ってやってんじゃん」
「それは子供たちだからでしょ。ちっちゃいお客さんをもてなしてるの。あんたが店の商品を飲み食いした分は別よ」
「なっ――」
た、たしかに、いつも店の方で飲み物を注文する際は、従業員割引の安い値段だが、料金を払っている。
俺は恐る恐る伝票に目を通す。
何杯飲んだんだ、俺は。
クソガキたちの妙に上手い接客に乗せられて、けっこうな量を飲んだぞ……
一、十、百、千……
「四五〇六円!?」
「そ。どうする? 一応言っとくけど、未夜ちゃんたちの分は計上してないよ」
たしかに、伝票に載っているのは俺の注文した商品だけだ。いやしかし、四千円強は高校生のお財布には大ダメージだ。
あのクソガキどもめ……
「……バイトで」
*
その後、〈ムーンナイトテラス 二かいしてん〉がオープンすることは二度となかったとさ。
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