第129話 牽制球
1
「ん~、美味しい!」
しゅわっと、炭酸の刺激が喉に弾ける。ブルーハワイのシロップで割ったサイダーにシャーベット状の氷を注ぎ、縁には薄切りのレモンが添えてある。涼しげでトロピカルなドリンクだ。
「今日も暑いねー」
朝華はハンカチで首元の汗を拭って、
「そうだね。三十度は余裕で超えてるよ」
午前十一時。
私と朝華は源道寺家の展望テラスにいた。勇にぃは親戚の家の集まりに顔を出しており、眞昼も熊本の親戚の家――お母さんの実家だそうだ――に里帰りしている。
みーんみーんと蝉の大合唱。グラスについた水滴が日射しに煌めき、そよぐ風には夏の活気が溢れていた。
改めて高台から街を見下ろしてみると、この辺りは山に囲まれているなぁ、と感じる。
北にそびえるのは日本一の山。東には愛鷹山があり、西に連なるのは毛無山。南には岩本山。その先は駿河湾だ。
私はストローを咥えてちゅっと吸った。すっきりした甘さが口内に広がる。
「ふう。なんか今年の夏って長い気がするねー」
「そう?」
「なんか体感で半年くらい夏やってる気がする」
「未夜ちゃん、そんな大げさな」
朝華は苦笑する。
「まだ半分くらいでしょ?」
「そうだけど。梅雨明けが早かったからかなー?」
そりゃ半年はたしかに大げさだけど、なんというか、平年よりもだいぶ密度が濃いような気がするのだ。いつもの夏は、だいたい眞昼と朝華と一緒に遊ぶか、一日中読書をするかで終わっていた。
「それはきっと、勇にぃがいるからじゃない?」
「あっ、そうかも」
勇にぃがいる。それだけでたしかに、何気ない日常が華やかに感じられる。インドア派の私でも外出する機会が増えたのは、きっと勇にぃが色んなところに連れて行ってくれるおかげだろう。
「勇にぃと会ったのも、夏だったね」
「うん、私が朝華たちを〈ムーンナイトテラス〉に連れてったんだよ」
「……懐かしい」
あれからもう十一年経つ。空き家を探検したり、プールに行ったり、夏祭りで花火を見たり、あの頃も今と同じように濃密な夏だったと記憶している。
「そういえば最初、朝華って勇にぃのこと勇さんって呼んでたよね」
「あー、そうだっけ」
「いつの間にか勇にぃになってたけど。なにがきっかけだったの?」
「うふふ、内緒」
「教えてよー」
「あっ、そうそう、勇にぃといえば。未夜ちゃんさぁ」
朝華はストローをくるくる回す。
「んー、なに?」
「キャンプの時、勇にぃのテントで一晩過ごしたでしょ?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「いんや?」
脇の下を冷や汗が伝った。
2
心臓がばくばくと鼓動を速め、血液の循環が加速する。それでいて、私の背筋にゾッと寒気が走る。暑いのに寒いぞ。
冷や汗が私の体温を奪っていく……
「えっと、ななな、な、何のことかなー。ひゅー、ひゅー」
私は口笛を吹く。
「隠さなくても大丈夫だよ。もうバレてるから」
朝華はじっと私を見据える。眼鏡の奥に覗く大きな瞳が、全てを見透かしているぞ、と言っているようだ。
「うっ……」
「大丈夫。別に怒ってるわけじゃないから」
な、なんで?
というかさ、なんでバレたの?
バレるようなへまはやらかしてないはず……
あの時のことは私と勇にぃしか知らないはずなのだ。
もしや勇にぃが喋ったのか?
いや、それは考えられない。
勇にぃにとっても私にとっても、あのキャンプの朝の珍事は恥ずかしい思い出として心に深く刻まれているのだ。誰かに知られることはお互い望んでいない。
二人だけの秘密のはずなのに……
やっぱり、朝華がテントを覗いた時に気づかれてしまったのかもしれない。
「えっとぉ、そのぉ」
今さらごまかしはきかないだろう。そもそも、勇にぃのテントで夜を過ごしたことは動かしようのない事実なのだから。かといって、変な誤解をされても困るし……
どうしよう。
「あ、あのね朝華。私と勇にぃは別に――」
「分かってる。寝ぼけて入っちゃったんでしょ?」
「へ?」
「夜中にトイレに起きて、戻るテントを間違えちゃっただけなんだよね?」
「え? み、見てたの?」
「ううん。推理してみただけだよ」
「推理?」
「合ってた?」
朝華はにこっと微笑む。
「う、うん」
「未夜ちゃんっておっちょこちょいなところがあるから、たぶんそうだろうなって思ったの」
「でもどうして分かったの?」
「だって、三人の中で最後まで起きてたのは私だもん。未夜ちゃんが熟睡してるとこはしっかり見てたから」
「へぇ」
「もし未夜ちゃんと勇にぃがこっそり夜中に会っていちゃこらしてたら、必ず未夜ちゃんはこっちのテントに戻ってくるはず。だって私と眞昼ちゃんに知られないためにこっそり会うのに、二人一緒のテントで寝ちゃったら密会の意味がなくなるでしょう?」
「……ああ」
なるほど。
仮に私と勇にぃが二人の目を盗んで深夜の密会を計画したとしよう。それは眞昼と朝華にバレないように、という目的のために行われるのだから、事が終わったら私と勇にぃは別々のテントに別れなくてはいけない。
万が一同じテントで就寝して、翌朝二人の内のどちらかに見つかってしまったら元も子もなくなるからだ。
つまり、私と勇にぃが同じテントで目覚めたという事実は、皮肉にも私たちの無実を証明してくれていたのだ。
「あれ? そういえば朝華はなんで遅くまで起きてたの?」
「……コーヒーを飲みすぎて眠れなかったの」
「あっ、そうかそうか」
寝る前にみんなでコーヒーを飲みながらトランプをしていたっけ。
「それと未夜ちゃん、あの時、目覚ましかけっぱなしだったでしょ」
「うん」
翌朝のカブトムシ採集のために私は目覚ましをセットしていた。
「あれが何よりの証拠。目覚ましを解除しないままだったら、私と眞昼ちゃんを起こすリスクがあるし、現に私たちはそれで起こされた。そうしたら、未夜ちゃんがいないってことはすぐに分かっちゃう」
「うぅ」
「それに寝起きの悪い未夜ちゃんが目覚ましなしで起きられるはずがないから、解除されていない目覚ましと未夜ちゃんがいないって状況は違和感しかないもの」
「あぅ」
「たぶん目覚ましが鳴ったタイミングで起きて、そこが勇にぃのテントだって気づいた。でも隣にいた私と眞昼ちゃんも起きちゃったから、出るに出られなくなったってところかな」
推理を締めくくるように、朝華はグラスに残っていたサイダーを飲み干した。
「どうかな?」
「……全部、合ってます」
というか、的中しすぎてて怖いんですけど!
ミステリの探偵役を張れるほどの推理力だ。
さすがは幼馴染。私の行動と心理をここまで読み当ててくるとは。
「いやぁ、私もあの時は気が動転しててさ、二人にバレたら変な誤解をされるんじゃないかって思って」
「変な誤解?」
「ほら、一応、女子高生と社会人だし、キャンプ場には私たち以外にも人がいたし……」
「そうだね。そういうのはダメだよね」
その時、強い風が吹いて朝華の髪が大きく乱れた。
3
髪を手で押さえながら、朝華は立ち上がる。眼下に広がる街の景色を眺めながら、
「私たちの仲だから黙認されてるけど、一般的には女子高生と社会人って組み合わせは社会的には異端だってことは意識しておかないとね。もう私たちは子供じゃないんだから」
「そう……だよね」
未成年である私たちと社会人である勇にぃとでは、社会的な立場が全く違う。本人同士が納得していても、社会がそれを受け入れてくれるとは限らないのだ。昔みたいな数々の誤解を今の勇にぃが受けたら、それこそ本当に逮捕されかねない。
いくら私たちが昔から知っている仲だろうと、そんな事情を知らない他人から見たら、成人男性が女子高生を侍らせているようにしか見えないかもしれない。
もう保護者と子供という関係ではないのだから……
男と女。
だけどまだ、大人と子供。
「別に勇にぃと仲良くすることがダメだって言ってるんじゃないんだよ」
朝華はこちらを振り返る。その表情はどこまでも柔らかく、そして優しかった。
「私だって勇にぃには昔みたいに甘えたいけど、ただ、人前で誤解を招くようなことはできるだけしない方がいいってこと。勇にぃの社会的地位のためにもね」
「……そうだね、分かったよ。あっ、ま、眞昼には内緒にしといてね。恥ずかしいから」
「分かった。未夜ちゃんも気を付けてね。未夜ちゃんのおっちょこちょいがまた暴走したら、またとんでもないトラブルが起こるかもしれないし」
「私ってそんなにおっちょこちょいかな?」
なんだか私がおっちょこちょいという前提で話が進んでいることが納得いかない。
「え? 自覚してなかったの?」
失礼なっ!
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