第121話  運命の二択

 1



「むふふ」


 森の静謐に野鳥の声が時折り響き渡る。


 見渡す限り、右も左も緑の景色。


 木漏れ日の落ちるけもの道を歩きながら、私はすんと息を吸う。どことなく、いつもよりも空気が美味しい気がする。


 右手の盛り上がったところの土から、太い根っこが浮き出ていた。その先を辿ると、見上げるのが辛いくらい大きな木が。


「うわぁ、おっきぃ」


 眞昼十人分ぐらい、いやもっと大きいな。


 キャンプ場は目と鼻の先なのに、まるで別世界にやって来たかのような心地。人の喧騒から隔絶された自然の世界……なんて。


「おっ、この辺がよさそう」


 こぢんまりと開けた場所に立つクヌギの木を見つけた。


 樹皮をそっと撫でると、手のひらにざらざらとした感触が伝わる。


 目線よりも少し高いところから樹液が出ていた。


 けれど、群がっているのはカナブンや蝶ばかりで、お目当てのカブトムシはいない。


 今はどこかで休んでいるのだろう。


 まあいい。


 君子危うきに近寄らず。


 樹液の出る木にはスズメバチみたいな危険な虫も寄ってくることがあるから長居はできない。

 が、そこはデキる女の私。わざわざ危険を冒してまでカブトムシを探すなんてことはしないのだよ。


 場所の目星はついた。


 あとはを待つだけ。まだちょっと早いんだよなぁ。


「ふっふっふ」


 私は踵を返し、けもの道をキャンプ場まで戻った。



 2



「あっ、戻って来た」


 洗い物を終えてタープテントに戻ると、ちょうど未夜も林から出てくるところだった。リズム感皆無なスキップをしながら、こちらに向かってくる。


「なにやってたんだ?」


 あたしが聞くと、未夜は顎に手を当てて、


「えへへ、ちょっとね~」


「なんだよ」


「ふっふっふ。びっくりするよ。そうだ、朝華ー、バナナあるー?」


「車の方の冷蔵庫にあるよ」


「おっけー」


 未夜はキャンピングカーの方へ向かった。


「カブトムシだな」


「カブトムシだね」


 おそらく捕獲用の罠を作るのだろう。未夜は本当にカブトムシが好きだな。


 そりゃ、あたしも小さい頃はカッコいいってイメージがあったけど、いつの間にか触ることができなくなっていた。それにカブトムシだけじゃなく、バッタにカマキリ、蝶ですら無理だ。


 なんといっても、あの無機質な目。

 生き物なのに、感情が一切感じられないところが恐ろしい。


 洗い物をテントの縁に吊るしたドライネットの中に入れて、自然乾燥させる。いい天気だし、夕食の時までには乾くだろう。


 未夜は十数分で戻って来た。


 その後、三人でまったりお茶を飲みながら談笑をしたり、トランプをしたりしているうちに、勇にぃが目を覚ました。


「ぐぁ、よく寝た……今、何時だ?」


「三時前です」


 朝華はすぐに立ち上がり、勇にぃの横に行く。


「おお、がっつり寝ちまったか」


「勇にぃもトランプする?」


「おお、するする。でもその前に何か飲み物が欲しい」


「ほれ」


 あたしが一番クーラーボックスに近かったので、ペットボトルの麦茶を取り出して投げてやった。


「おわっ」


「ナイスキャッチ!」


「ナイスキャッチ、じゃねぇ。ったく……ぷはぁ、美味い」


 四人でテーブルを囲む。


「なにやるなにやる?」


 未夜がカードを切りながら全員を見回す。


「四人だったら、やっぱ大富豪だろ」と勇にぃ。


 林の方からさわやかな風が吹いてくる。


 気温も少しずつではあるが下がってきていた。




「ちょっと待て、5飛びってなんだ!? 俺その謎ルール知らねぇぞ」

「はい勇にぃ、都落ち」



「おら、Jバック」

「はい8切り」



「革命だよ!」

「残念未夜ちゃん、革命返し」

「はぁ? はあぁ!?」



 そうして、あたしたちは夕方まで大富豪を楽しんだ。



 3



 日が落ち、夜になる直前の水色と青の中間みたいな空の色。月がぼんやりと頼りなく見え始めている。


 もうまもなくすれば、星々が煌めき出し、月もくっきりとその輪郭を浮かび上がらせるだろう。


 キャンプ場のあちこちに焚き火の暖かい光が灯る。そしてそれは、俺たちの許にも……


 石を積み上げて作ったかまど。風よけのために一方向のみ開いた口から、火が覗く。その上には鍋が置かれており、真剣な顔をした未夜がその中を凝視している。


「眞昼、もういい?」


「まだ全然だろうが」


「むぅ」


 未夜はついっとおたまを鍋に沈め、表面に浮かぶ灰汁をすくう。


「飽きたよー」


「これをやるかやらないかで味が決まると言っても過言じゃないぞ」


 眞昼は諭すような調子で言う。


「むぅ」


 今日の夕食はカレーだ。キャンプといえばカレー。カレーといえばキャンプ。


 灰汁とりが終わったようで、眞昼がルーを折って鍋に入れ始めた。スパイシーな香りが漂ってくる。


「美味しそうだね」


「私が灰汁とりしたおかげだよ」


「未夜ちゃん、偉い」


「もっと褒めていいよ」


 そろそろ飯の準備もしよう。


 眞昼もいることだし、三合くらい炊いとくか。余れば明日の朝食にすればいい。


 無論、この場には炊飯器などない。よって、飯盒炊爨の出番だ。


 もう一つ作っておいたかまどの火を起こす。


 たいていの飯盒は蓋で米を計ることができる。きっちり三合分の米を飯盒に入れ、水を投入する。

 次に米を研ぐ。これがちょっと難関で、飯盒が狭いため、手を入れにくいし研ぎにくい。飯盒そのものをシャカシャカ振って研ぐこともできるのだが、こいつらに美味いカレーを食わせるために妥協はできないな。


「勇にぃ、私がやりましょうか?」


「いいのか? 悪いな」


 朝華の小さな手はすんなり飯盒に収まる。


「終わりました。あとは火にかけるんですよね」


「いや、水を入れてちょっと寝かせておくんだ。そうすると芯が残らなくなる」


「ふーん、どれくらい?」


 未夜が聞く。


「そうだな、三十分くらいかな」


「そんなに!?」


「美味いカレーは時間をかけてこそだろうが」


「なんか勇にぃのカレースイッチ入ったかもね。どうせカレーも煮込むんだし、その間に付け合わせを作ればいいじゃん」


 そう言って眞昼はまな板の方に向かった。


 

 *



 辺りもすっかり暗くなり、炎のゆらめきが暗闇に映える。


 いよいよ夕食だ。


 四人でテーブルを囲む。


 カレー、エビとブロッコリーのアヒージョ、コンソメスープにサラダと、自分たちで作ったにしてはなかなか豪勢な食事だ。


「さて、いただくか」


 俺はチューハイを開ける。


「いただきます」

「いただきます」

「いただきます」


「うん、美味い」


 カレーにしっかりコクがあり、米もふっくらとしている。


「美味しいね」

「美味いな」

「美味しい」


 大満足の夕食だった。



 4



 夕食後、キャンピングカーで順番にシャワーを浴びた。シャワーを浴び、さっぱりした後、星空を眺めながら飲むビールは格別だ。


「あれ、未夜は?」


「林の方に行きました。多分、カブトムシ――」


 その単語を聞いた途端、全身に悪寒が走った。


 いやまあ夏だし、キャンプだし、後ろは林だし、要素は揃っているからやるだろうとは思っていたけれど。


 未夜が戻ってきたので身構えるも、彼女は手ぶらだった。


「未夜ちゃん、カブトムシ取りに行ったんじゃないの?」


「違うよ、いや違わないけど。夜は危ないから、罠だけ仕掛けて明日の朝回収するんだ」


「へぇ」


「ちゃんとケージに入れとけよ」


「わ、分かってるって」


「勇にぃ、ビビりすぎだろ」


「は? ビビッてねぇし」


「じゃあ、さっさとあたしの背中から離れなよ」


「みんな、食後のコーヒーだよ」


 朝華が例の特注のマグカップにコーヒーを淹れてくれた。たしか俺のは青のハートのやつだったな。


「どうですか? 本職の人に飲んでもらうのは緊張しますけど」


「いや美味いぞ、かなり美味い」


「そうですか」


 朝華は満足そうだ。


「眞昼ちゃんはミルク多めが好きだったよね」


「ありがとう、朝華」


 ランタンの明かりの下でコーヒーを飲みながら、トランプの続きをする。ゆったりとした時の流れに、いつしか時間の感覚もなくなっていた。


「あれ、もう十時だよ」


「たしかここは十時消灯だったな」


 キャンプ場から灯りがぽつぽつと消えていく。そろそろ寝るか。


 歯を磨いてトイレを済ませる。


「勇にぃ、一人で寂しくないですか?」


 朝華が心配そうに言った。


「大丈夫だって」


「寂しかったらあたしらのテントに来てもいいぞ」


「捕まるわ!」


 こいつらがクソガキの頃だったらそれでもよかったかもしれないが、今では大人同士。そういうところはきっちりしておかないと余計な誤解を生む。


「そんじゃ、お休み」


「お休み」

「お休み」

「お休みなさい」


 俺たちは二つのテントに分かれた。



 *



 夜も深まった頃。


「ぐっ、ぐっ」


 朝華はもがいていた。


 みんなが寝静まった後、こっそりテントを抜け出し、有月のテントに忍び込もうという算段だった。


 が、


「うぅ、動けない」


 右には眞昼、左には未夜。中心という位置取りが災いした。未夜と眞昼が左右から抱き着いているのだ。


 下手に動くと二人を起こしてしまうかもしれない。


「くぅ……」


 二人の内どちらかが上手いこと寝がえりを打つなりして姿勢を変えてくれれば、なんとか抜け出すことができそうなのだが、もうそろそろ朝華の眠気も限界だった。


 夜に備えて昼寝をしておけばよかった、とちょっぴり後悔する。コーヒーをブラックで三杯も飲んだが、その効果もそろそろ切れようとしている。


 ちょっと目を閉じてみたら、とても気持ちがよかった。

 この快楽に身をゆだねてしまいたいけれど、そうしたら野望が潰える。


 駄目。


 ここで意識を途絶えさせたら、もう朝になってしまう……


 だ、駄目。


「ふわぁ」



 *



「うーん」


 私はふと目を覚ました。


 視界がぼにゃぼにゃしている。


 まだ夜だ。


 目を閉じたその時、下腹部に刺激を感じた。


「……おしっこ」


 眠気と尿意を天秤にかける。


 あっ、この感じは放置したらヤバイ感じのやつだ。


 でも、動きたくないなぁ。


 数分熟考し、私はよろよろと立ち上がった。


 朝華も眞昼も寝息を立てていたので起こさないようにそっと立ち上がる。


「うぅ、おっとっと」


 暗くて前がよく見えない。何か布っぽいものに足を取られて転びかけた。


 危ない、危ない。


 テントから出る。公衆トイレまでは距離があるのでキャンピングカーのトイレで済ませた。


 眠い。


 早く寝たい。


 今日は朝早くに起きて準備をして、テントの設営やフリスビー、林の散策などで体を動かしまくった。


 その疲労は眠気に変換され、私の脳内を蹂躙している。


 眠い。


「あふぅ」


 大きな欠伸をし、私はテントに入った。


 そのまま倒れ込むように自分の寝袋に入る。


「ふぅ」


「ぐはっ」


 寝相の悪い子が私の寝袋のところまで移動してるな?


 暗くてよく分からないけれど、多分、位置的に朝華か。


「朝華ぁ……ごめん」


 あれ?


 なんか朝華ごつくなった?


 まあいっか。


 もう睡魔に耐えきれない。


 朝華を抱きしめながら目を閉じる。


 さ、寝よ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る