第122話 火種
1
もう朝か。
目覚まし代わりに、ちゅんちゅんと挨拶を交わす鳥たちの声がテント越しに聞こえてくる。
心が安らぐ。
自然の中で寝起きするのは本当に気持ちがいい。
どうせ休みなんだし、もう少し眠っていよう。
その時、俺はある異変に気付いた。
全身に圧迫感と重みを感じる。まるで人一人が俺の体の上に乗っているかのようだ。
なんだ、金縛りか?
会社勤めをしていた頃はストレスと疲労が祟ったのか、寝る前や寝起きにしょっちゅう金縛りに遭っていた。が、その当時のものとは少し感覚が違うな。
苦しいは苦しいのだが、甘い香りが鼻腔をくすぐっていて、さほど不快感はない。
それに、なんだかもふもふとした手触りが……
「……ん?」
不審に思い、俺は目を開けて頭を起こした。
その瞬間、一気に目が覚めた。
「は!? いや……は?」
状況が理解できない。
まず目に入って来たのは、気持ちよさそうに眠っている未夜の顔。俺の胸の辺りに顔を乗せ、すうすうと寝息を立てている。俺の右手は未夜の後頭部に置かれ、まるで抱きしめているような体勢だ。
な、なんで未夜が俺のテントに?
未夜はこちらの混乱をよそに熟睡している。
腹の辺りに柔らかくて大きいものが二つも乗っており、俺はすかさず父と太一がサウナに入っている場面を想像して昂ぶりを抑えた。
いや、落ち着け、俺。
未夜のことだ。
そう、例えば、夜中にトイレに立って、そのまま寝ぼけてこっちのテントに入ってしまったということは十分考えられる。というより、それしか考えられない。
未夜ならやりかねない。
こいつは昔から天然というか、どこか抜けているところがあった。それは成長してもあまり変わっていない。
いやいや、そんなことよりもこの状況はまずい。
俺たち二人が同じテントで寝起きしているところを隣の二人に見つかったら、よからぬ誤解をされる可能性がある。
ただでさえアラサーのおっさんプラス女子高生三人という社会的に見て不健全な組み合わせなんだ。
眞昼と朝華が起きる前に、未夜を隣のテントに戻らせなくては。
「おい、未夜。起きろ」
未夜の頭を軽く叩く。
「んふぇ?」
「起きたか」
「へ? 勇にぃ?」
未夜は顔を真っ赤にして体を起こす。
「な、ななな、なんで私たちのテントに?」
「大声出すなバカ。いいか、ここは俺のテントだ。よく見ろ」
「へ?」
未夜は周囲を見回す。
「あれ? ほんとだ。でもなんで……」
「小声で話せよ? いいか? 多分、寝ぼけてテントを間違えたんだろう。お前、昨日の夜中にトイレ行ったりしたか?」
「うん」
こくりと未夜は頷いた。
「やっぱりか。きっとその帰りに間違ってこっちのテントに入っちまったんだよ」
普通はそんなことはまず起きないと思うが、未夜ならやりかねない。
「ええ、ってことは私、勇にぃと一緒に、一晩寝てたって、こと?」
状況が吞み込めてきたようだ。気恥ずかしそうに口元を隠し、未夜は目を泳がせる。
もじもじと体をうねらせながら、未夜はじとっと俺を見下ろす。
「あっ、大丈夫だぞ、安心しろ、俺も今起きて気づいたから。何もしてないからな」
妹分に手を出すわけがない。
「……なぁんだ」
「あ? なんか言ったか?」
「べっつにー」
「まあ、それはともかく、たぶんあいつらはまだ寝てるだろうから、早く戻れ」
気づかれないうちに戻ってしまえば、なにも問題はないのだ。
「わ、分かった――」
そうして未夜が腰を上げたその時、隣のテントから鼓膜を突き抜くようなけたたましい音が響いた。
「う、うるせぇ。なんだこの音」
「あっ、カブトムシ取りに行くから目覚ましセットしてたんだった」
「はぁ?」
音は五秒ほどで止まった。その直後、隣からごそごそと衣擦れのような音が聞こえてくる。
「うるさいなぁ、なんだよ、まだ六時じゃんか」
眞昼の声だ。
「眞昼ちゃん、多分それ、未夜ちゃんがほら、カブトムシ」
朝華の声も聞こえてくる。
「おい未夜、あれ? いねぇじゃん」
「もう起きて採りに行ったのかも」
「だったら、目覚まし解除してけよな……おはよう、朝華」
「おはよう、眞昼ちゃん」
今ので完全に二人が目を覚ましてしまった。
「やばいよやばいよ、二人が起きちゃったよ」
「落ち着け」
俺はテントの入り口に身を寄せ、外の様子を窺う。
「なんか目が醒めちまったな。おっ、いい天気」
しまった、眞昼が外に出てしまった。彼女はテントの入り口の前で朝日を浴びながらストレッチを始める。
長く色白の手足をぐっと伸ばす。その体のしなやかさと柔らかさは思わず見惚れてしまいそうなほど……
「……!」
その時、重大なことに気づいた。
脇に冷たい汗が伝う。
絶対的ピンチ……
未夜のスニーカーが、俺のテントの前にあるのだ。
2
それは当然そうだろう。
俺のテントに入ったのだから、靴がこちらのテントの前に脱ぎ捨ててあるのは当たり前のこと。
そしてもしこれが見つかってしまえば、言い逃れようのない物証となることもまた当然……
「いっちに、さんしっ」
眞昼はストレッチに集中しており、幸いにもスニーカーはまだ見つかっていない。
俺はゆっくり、なるべく音を立てずに入口のジッパーを開ける。
頼むぞ。眞昼。こっちを向くなよ。
そして手だけを外に出し、未夜のスニーカーの回収を試みる。
音を立てずに、そして迅速に。
「あれ? 勇にぃ?」
手をテントの中に戻したのとほぼ同時に眞昼と目が合った。後屈で体を後ろに反らした眞昼は、逆さまの笑顔を見せる。
「おはよう」
「お、おう、おはよう」
眞昼の反応を見るに、バレずに済んだようだ。
「いい朝だな」
「そ、そうだな。はは」
「勇にぃ」と今度は朝華がテントから出てきた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
朝華は俺のテントの前に向かってくる。
まずい、中を覗かれたら未夜がいることがバレる。
「え? ああ、おはよう。そりゃもう、ばっちりよ」
俺は一瞬だけ背後を振り向き、『隠れろ』と口パクを送った。
*
『隠れろ』ってこの狭いテントの中でどう隠れろっていうのさ。
荷物は私の体を隠すには背が足りないし、勇にぃの後ろにくっついても絶対バレる。
入口の真横に立てば死角になる?
いや、ちょっと朝華が角度を変えれば一発でバレる。
となると残るは……
「……」
しょうがないよね。
不可抗力だし。
ほかに隠れる場所なんてないし。
そうして、私は勇にぃの寝袋の中に潜り込む。
全身を隠せる場所はここしかないのだから、しょうがない。多少膨らみがあっても、暗いテントの中だから、そこまで違和感はないはず。
勇にぃの香りが私の全身を包む。
落ち着くのにドキドキする。
変な感じ。
それになんだか、懐かしい感じがする。
「あれ? 顔色が悪いですよ。寝不足ですか?」
「いや、そんなことはないぞ。ぐっすりばっちりだ」
「一人で寂しくなかったですか?」
「大丈夫だって」
大丈夫、今のところはバレてない。
「もう朝ご飯にしますか?」
「ん、そうだな。腹減ったなぁ」
「よし、朝飯作るか」
眞昼が張り切り声で言った。
「勇にぃ、どうしてずっとそこにいるんですか? 出てきてください」
「ああ、そうだな」
ジッパーの開く音が聞こえてくる。
どうやら勇にぃは外に出ていったようだ。
二人の足音が遠のいていく。
「ふう」
なんとかセーフ。切り抜けた。
私は寝袋にくるまったまま、入口に顔を寄せる。
あとは眞昼と朝華にバレないようにここから脱出するだけだ。
3
それから十五分ほどの時間が経った。
タープテントの下で朝食の準備を進める三人。一向にその場を離れる気配はない。
まずい。
なかなか出ていくタイミングがないよ。
テントの入り口の正面にタープテントが設営されている位置関係のため、私がここから出ようものなら、あっという間に見咎められてしまうだろう。
距離にしてざっと二、三メートル。
なんとかして勇にぃに二人をここから引き離してもらわなければ。
カリカリと入口のメッシュをひっかき、勇にぃに合図を送る。
「勇にぃ、パスタ茹で上がりました」
「おし、じゃあ炒めるか」
「勇にぃ、そろそろ大根おろす?」
「ああ、頼む」
勇にぃ、料理に夢中になってないで気づいて!
*
慌てるな未夜。
二人を一度にこの場から動かすのはまず無理だ。
一人ずつ着実に、そして自然に行こう。
そう、クローズドサークルの中で、殺人鬼が一人ずつターゲットを仕留めていくように。
朝食のツナと大根のスパゲティが出来上がったのを見計らい、俺は自然に切り出す。
「そういや未夜はまだ戻ってこないのか」
さりげなく林の方を見やる。
「あたしらが起きるより前に行ったから、もう戻ってきてもいいと思うんだけどな」
「きっとカブトムシと遊んでるんじゃないかな」
「もう飯だってのに。眞昼、ちょっと呼んできてくれないか?」
「分かった」
眞昼が小走りで林の中に入っていく。
よしよし、これで眞昼は片付いた。
林の中にいない未夜を探すのだから、五分か十分は稼げるだろう。その間に朝華をテントから引きはがせば任務完了だ。
俺はテントの方へこっそりウィンクをする。
「勇にぃ、どうしました?」
「いや、別になんでもねぇって。そうだ、朝華、せっかくだしコーヒーと一緒に食いたいな」
「分かりました。あっ、まだマグカップ洗ってませんでした。ちょっと洗ってきますね」
「俺も手伝うよ」
「ありがとうございます」
朝華はにっこりと笑顔を返す。そうして俺は朝華と共に炊事場へ向かった。ふふふ、これでミッションコンプリートだ。
4
ナイス勇にぃ。
これで誰もいない。
名残惜しいけど、今の内に出ないと。
「んしょ」
私は寝袋から這い出ると、スニーカーを持ってそそくさとテントから出た。
朝日が目に沁みる。
緊張から解放され、重たい息が自然と漏れた。
「ふう」
一時はどうなることかと思ったけど、何事もなく終わってよかったよ。
テーブルの上にはキッチンパラソルで囲われた朝食が準備されている。
美味しそう。
あとは三人を待つだけ……じゃない。
私はあくまで雑木林でカブトムシ採集をしていることになっているんだから、眞昼と林の中で落ち合わないといけないんだった。
そうしないと『どこに行ってたのか』という疑惑が持ち上がってしまう。
私は林の中に駆け込み、カブトムシトラップを仕掛けた木へ急いだ。
カブトムシ以外にも、カナブンや蝶などが捕まっている。それらをぱっぱと取り除き、カブトムシだけをケージに入れる。その時、
「あっ、おーい、未夜」
眞昼の声が聞こえた。
「やっと見つけた」
「あれー? 眞昼、どうしたのー?」
「どうしたのじゃねぇよ。もうみんな起きてるぞ」
「えー、そうなんだー」
「林の中を探し回ったよ」
「ご、ごめん」
「ほら、朝飯もう出来てるから」
「う、うん。お腹空いたなー」
それから私たちはお昼過ぎまでキャンプを楽しみ、夕方頃に帰宅した。
四人で過ごしたこのキャンプは、私たちの大事な思い出としていつまでも心の中に残っていくだろう。
*
その夜、自室にて。
私は勇にぃの寝袋に残っていた長い毛を摘み上げる。
「なるほど、そういうことね」
電灯の光を受け、茶色く輝く毛。
「未夜ちゃんもなかなかやるなぁ」
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