第117話  絶壁

 1



 胸がざわめく。


 快晴の空の下とは思えないほど、その場に流れる空気はひどく澱んでいる。


 警察官の無機質な視線、金髪美少女の燃えるような視線、そして、祖母の困惑に満ちた視線が全て俺に集まる。


 胃がキリキリと収縮し、血液が凍り付くぐらい体温が下がっているような気がする。それでいて、全身にどっと汗をかく、懐かしい感覚だ。


 警察官は一歩こちらに踏み出す。


「君、ちょっと詳しく話を聞かせてくれるかな」


「ち、違うんです。誤解なんです。俺はただ――」


 その時、謎の金髪美少女は青い瞳で俺を睨んで、


「あんた、いったい誰よ」


「それはこっちのセリフだ」と口にしかけたところで、先ほどの彼女と祖母との会話の中で登場した名前を思い出す。


 夕陽。


 ふと懐かしい記憶が頭の底から湧き上がってきた。


 夕陽っていうのはたしか……


 淡い金色の髪に人形のように整った顔立ち。小さくてマイペースなイギリスとのハーフ、外神夕陽。


 俺の従妹だ。


 年に数回程度しか会う機会がなかったのと、ここ十年は会っていなかったため、すっかり忘れていた。


 そうだそうだ。


「婆ちゃん、もしかしてこの子、夕陽ちゃん?」


 祖母は嬉しそうに顔をほころばせる。


「そうそう、今はうちに住んでるんだよ」


「へぇ、大きくなって……」


 記憶の中の夕陽の姿は、幼稚園に通っていた頃で止まってしまっているが、その面影はたしかにある。


「夕陽ちゃん、久しぶりだね、俺のこと憶えてる?」


「知らないわよ、誰あんた!」


「うっ……」


 今にも飛びかからんばかりの剣幕で夕陽は叫ぶ。


 それもそうだ。


 彼女にしてみれば、知らないおっさんがいきなり自分の部屋にやってきて、着替え姿を見られたのだから。

 

「勇ちゃんだよ、憶えてないかい? さやかの子で、あんた昔よく遊んでもらったら?」


 祖母がなだめるように言うと、夕陽はじろっとこちらを見据えて、


「さやか伯母さんの……? ってことは、おじさん、夕陽の従兄弟なの?」


「そう。今日は遊びに来たんだ。着替え途中に部屋に入っちゃったのは本当にごめん。悪かったよ。夕陽ちゃんが住んでること知らなくてさ」


 俺は深々と頭を下げた。

 

「あたしも先に言っとけばよかったねぇ」


「本当にごめん」


「……本当に悪いと思ってる?」


「ああ」


「ふぅん、ま、夕陽も鬼じゃないし、心から謝ってるんだったら別に許してあげてもいいけど」


「ほんとか? ありがとう」


「ふんっ」


 腕を組み、不服そうな調子ではあるが、なんとか許しを得た。


 ここまでのやり取りを見守っていた警察官にも事情を説明し、ようやく誤解は解けた。


「すいません、お騒がせしました」


 俺は警察官にも頭を下げ、去って行くパトカーを見送った。



 2



 屋敷の居間に集まり、俺たちは改めて顔を合わせる。


「十年ぶりかな、夕陽ちゃん。こんなに大きくなって」


「夕陽は全然憶えてないけどね」


「そ、そう」


 夕陽と最後に会った時、彼女は幼稚園の年長さんだった。当時六歳なのだから、俺のことを憶えていなくても不思議ではないか。


 未夜たちのように毎日一緒に過ごしていたわけではないし、十年も会うことがなければ、これがまともな反応だろう。


 こちらが憶えているだけになんだかちょっと寂しい。


「二人でゲームをしたりして遊んでたんだよ」と祖母が昔を懐かしむように言った。


「憶えてないわ」


 夕陽は即答する。


「親戚なのに、お正月やお盆にも帰省してこなかったみたいだけど?」


 痛いところを突かれた。


「帰省できないくらい仕事が忙しくてさ、仕事を辞めて三月に静岡に戻ってきたんだ」


「ニートってこと?」


「いや、ちゃんと実家の店で働いてるから」


「〈ムーンナイトテラス〉ね。最近は行ってないわ」


 夕陽は退屈そうな調子だ。俺はできる限り話を膨らませようと試みる。


「もう高校生だよね。どこの高校?」


「北高」


「へぇ」


 未夜や眞昼と同じ高校か。


「俺も昔は北高だったよ」


「あっそ」


 興味なさげに夕陽は髪を指に巻く。


「勇ちゃんが東京に就職して、十年くらい経つからねぇ」


 祖母がお茶を淹れに席を立つと、夕陽はぐいとこちらに顔を突き出し、


「誤解だったってことは認めてあげるけど、夕陽が着替てるところを見られたのは事実なんだから、この償いはいつかきっちりしてもらうんだからね。この変態」


 そう言い残して、夕陽は部屋から出ていった。


「へ、変態って」


 これは相当警戒されてるな。


 出会い方が出会い方だけに、非は完全にこちらにあるのだから嫌われても仕方ないのだが。昔から知っている子――それも親戚――に拒絶されるのは心にくるな。


「あれ? 夕陽は?」


 お盆に三人分のコップを乗せ、祖母が戻ってくる。


「部屋に戻ったみたい」


「そう、昔みたいに仲良くしてほしいんだけどねぇ」


「ははっ」



 3



 その日の夕方。


 外神家で夕食をお呼ばれした。


「ほれ、もう一杯」


 祖父――外神豊吉とよきちは、空になったコップにすかさずビールを注ぐ。


「も、もう無理だって、爺ちゃん」


「何を言ってんだ。まだ一瓶も空けてないぞ」


 祖父が半分以上残った酒瓶を掲げる。


「こらこら、あんまり無理して飲ませるものじゃないよ。ほら、勇ちゃん貸しな」


 俺からコップをひったくり、祖母は一息にビールを飲み干した。


「マジかよ」


「ぷはっ、んまいねぇ」


 そうして祖父母はどんどん空き瓶を量産していく。


「お婆ちゃん、あんまり飲みすぎちゃだめよ」


 夕陽が言うと、祖母はにっこり微笑んで、


「大丈夫、大丈夫」


「はぁ」


 たしかに余裕そうだ。

 さすがは母をこの世に産み落としただけのことはある。


 祖父母がこうして酒を大量に飲む様子は子供の頃から見慣れていた。けれど、酒の魔力を知る年齢になって改めてこういう光景を目にすると、それがいかにことかを理解できた。


 まるで水でも飲むかのようにビールが流し込まれていく。俺はちびちびと数分に一回ビールを一口飲むだけで精いっぱいだというのに。


「はぁ。勇と酒を飲める日が来るなんてなぁ」


 祖父は上機嫌だ。


「……ご馳走様」


 夕陽が席を立つ。昼間のこともあってか、彼女とはなかなか会話が弾まなかった。


「あ、あの夕陽ちゃん」


「うるさい、変態」


「うっ……」


 取り付く島もない。さらには変態の烙印を押される始末。


「夕陽はどうしたんだ? せっかく勇が来てるのに」


「色々あるのよ。勇ちゃん、部屋は二階の奥のところを使ってね」


「あ、うん」


 泊まっていくつもりはなかったのだが、祖父に強引に誘われ、つい飲んでしまった。明日は仕事なので、朝早く起きて家に戻らなくては。


 それから祖父母の晩酌に付き合い、俺もそこそこの量を飲んだ。


 頭がぐわんぐわんし、視界がぐるぐる回る。


 これはちょっとやばいな。


 吐くほどではないけれど、そろそろ限界がやってきたようだ。


「お、俺、もう寝るよ」


「二階の奥だからね」


「うん」


 バランスを上手く保てないまま、俺は部屋を出た。


 これ、階段をうまく上れるだろうか。



 *



 夕陽はアルバムをめくる。


 この屋敷の大広間で写した一枚に目を落とす。

 なるほど、親戚のみんなの中にたしかにあのおっさんの顔がある。


 こっちの方にはなんとあのおっさんと夕陽のツーショットの写真まであった。夕陽が四歳の時の写真。

 おっさんが夕陽を抱きかかえて、庭の橋の上で笑っている。


「ふうん」


 夕陽は全く憶えてないけど、あのおっさんが夕陽の従兄弟って話は本当みたい。


 有月の伯母さんの息子が東京に就職したって話を、そういえばだいぶ昔に聞いたことにあったっけ。


 ほかにも、一緒にスー〇ァミをしているところや、居間のこたつに二人で寝そべっているところなど、おっさんと夕陽のツーショットはたくさんあった。


「……」


 どちらも仲がよさそうで、まるで兄妹のようだ。


 向こうは夕陽のことを憶えてたんだなぁ。なんだか冷たい態度を取って、悪いことしちゃったかも。そりゃ、夕陽の着替えを覗いたことは大罪だけれど。


 この北高鉄壁聖女の一人である夕陽の着替えシーンを覗くなんて、殺されても文句は言えないんだから。


 時計をちらと見ると、そろそろ八時。


 お風呂にでも入ろうかな。


 一階に降りたところで、誰かとぶつかった。


「痛っ」


「おわっ」


「なっ!」


 あのおっさんが夕陽に突っ込むようにしてぶつかってきた。おっさんの顔が夕陽の胸に埋まる。


 この変態、やっぱりわざとやってるんじゃ……


「うわっと」


 だいぶ酔っているようで、そのままおっさんは尻もちをつく。


 どうやら酒に飲まれて足がふらつき、転びかけた拍子に夕陽にぶつかったようだ。


 呆れるなぁ。


「はぁ、ちょっと大丈――」


 優しい夕陽は手を差し伸べる。


「あっ、夕陽ちゃん? な、なんかにぶつかっちゃってさ」


「! か、壁……?」


「いや、というか、というか、なんかに……」


 真っ赤な顔をし、おっさんは焦点の定まらない目を虚空に向けている。今ぶつかったのが、夕陽と気づかないくらい酔っぱらってるようだ。


 でも――


「壁で、悪かったわね!」


 差し伸べた手を翻し、夕陽は思い切り打ち付ける。


 ぱぁん、と気持ちのいい音が鳴った。


「うぎゃっ」


「ちょっとちょっと、どうしたんだい」


 お婆ちゃんが居間からやってきた。


「ふらついて、壁にぶつかっちゃって――」


 まだ言うか。


「もう知らないんだから、この変態!」


 二人を残して、夕陽はお風呂に急いだ。




 

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