第81話  ア ナ タ ノ モ ノ

 1



〈ムーンナイトテラス〉の店内。今日も今日とてテスト勉強だ。勇にぃは今日の夜に帰ってくるらしい。


「朝華びっくりしただろうね」


 私が言うと、眞昼はシャーペンを握る手を止めて、


「完全なサプライズだったからね」


「朝華、ずっと会いたがってたからねぇ」


「子供の時みたいに、べったりくっついてたりしてな」


「まさか、そんなことないって。もういい大人なんだから」


 朝華は一歩引いたところから全体を見るような大人びている性格だから、きっと勇にぃも驚いただろうな。


「そりゃそうか」


「そうだよ」


 子供の頃ならあり得たかもしれないけれど、今の朝華に限って、そんなことないって。


「あはははは」



 2



「え?」


 湯に白い柔肌が沈んでいく。


「気持ちいいですね」


 肩が触れ合い、湯温以上の熱がそこに生まれた。


「あ、朝華?」


 俺はとっさに前を手で隠す。


「お、おま、お、おま」


 タオルで前を覆っているが、湯船に入ってしまえばタオルはゆらゆらと漂い、隠す効果は薄くなる。


「子供の頃、一緒にお風呂に入った仲じゃないですか。憶えてないですか?」


 台風の夜、源道寺家に泊まらせてもらった時、たしかに朝華と一緒に風呂に入ったが……


「そうだけど、そうだけど」


 あの時は朝華は水着を着ていたが、今は布切れ一枚だ。


「したいようにさせてもらいますね。言質はもう取りましたから」


 腕を絡ませ、体を寄せてくると同時に、むにゅっとした感覚が俺を襲う。


「――っ」



 3



「そういえば、あそこの別荘ってビーチがあったよな」


 眞昼が思い出したように言った。


 湘南の別荘には数年前に私と眞昼も遊びに行ったことがあった。泳ぐのは苦手だけれど、水辺で遊ぶのは好きである。

 あの時は三人だけで遊んだっけ。


「二人して、一足先に泳いでるかもね」


 青い海、白い雲、そして灼けた砂浜。


 潮風と蝉の鳴き声をBGMに、泳いで遊んで食べて……


 考えるだけで気分が盛り上がってくる。


 何より今年は勇にぃがいるのだから。


「ああ、羨ましいな。あたしも早く泳ぎてぇな」


 眞昼はテーブルの上に肘をつき、両手で顔を支える。


「そんなことより眞昼、手が止まってるよ。夏休みの前に、まずはこのテストを乗り切らなきゃ」


「分かってるよ。ていうか、未夜だって顔がだらけてるぞ」


「だ、だらけてないもん……顔がだらけるって何!?」


「あ、おじさん、コーラおかわり」



 4



 朝華は俺の上に馬乗りになって、そのまま自分の体を預ける。衣類がない分、感触が伝わる。


 長い髪を上げてまとめており、白いうなじが露わに。


「おい、何やってんだお前」


「離しません」


 背中へ腕を回し、顔を俺の首元に。


 湯に浸かり始めてまだ五分と経っていないのに、もう頭がくらくらしてきた。


「勇にぃ、今日で帰ってしまうんでしょう? またしばらく会えなくなっちゃうから」


 そうして、朝華は俺の首に唇を寄せる。


「朝華?」


 首元で、ちゅっと、小さな音が鳴った。


「勇にぃの匂い、好きです。変わってないですね」


 俺はひたすらに今まで出会ったおっさんたちの裸を想像する。そうでもしなければ、自分が自分で抑えられなくなる。

 朝華は兄貴分として俺を慕ってるだけなんだ。妹分に変な気を起こすなんて、絶対にダメだ。


 ふわりと香る朝華の匂いと全身を包む湯の熱気で、頭がぐわんぐわんしてくる。


「あ、朝華……」


「勇にぃ、私はあなただけが生きる目的なんです。あなたが私の全てです。だから、私も全部あなたに捧げます。頭のてっぺんから、足の先まで、私は……あなたのものです」


 そこから先の記憶はなかった。



 5



「はっ――」


 気がつくと、俺はリビングのソファーの上に寝かされていた。


「あ、あれ?」


「お、気づいたか」


 向かいのソファーに座った華吉が声をかける。


「え? あれ? なんで……」


「のぼせて気を失うなんて、やっぱり勇くんも二日酔いだったんじゃないか? 朝華が様子を見に行かなかったら、危ないところだったぞ」


「はぁ、すいません」


 どうやら俺はのぼせて気絶してしまったらしい。朝華と一緒に――というか一方的に――風呂に入ったような気がするが……


「勇にぃ、お水どうぞ」


 キッチンの方から朝華がコップを手にやってきた。


「ああ、ありがとう」


 冷たい水が喉に染み渡る。


「勇にぃ」


 朝華は俺の方へ顔を寄せると、


「一緒に入ったのは内緒ですよ」


 そう囁いた。


「……」


 やはり朝華と同じ湯に浸かったのか。

 いくら見知った間柄だといっても、現役JKと入浴するなんて、ほぼ犯罪じゃないか。

 眞昼といい、朝華といい、もう少し貞操観念を持った方がいいな。朝華に関しては、子供の時と同じように接しているだけかもしれないが。


 そういえば、あの時――気を失う直前、朝華は何かを言ったような気がするが思い出せない。


 だが、そんなことを華吉の前で聞くわけにもいかず、俺はその日を悶々と過ごした。


 夕食は華吉の計らいで、ビーチでバーベキューを楽しんだ。


 水平線に沈んでいく夕陽を見ながら、グリルを囲む。


「勇にぃ、おひとつどうぞ」


 朝華が缶ビールを手渡してくれた。


「ああ、ありがと……って飲まねぇよ。今日帰るんだから」


「あら、残念」


「朝華、お父さんは飲むぞ」


「それくらい自分で取ってください」


「あ、うん」


 肉を皿に移していると、朝華が傍によって大きく口を開けた。あーん、しろということか。全く子供じゃないんだから。


「ほれ、熱いぞ」


「あむ」


 唇についたタレを舌でぺろりと拭うのが艶めかしい。


 唇……


 不意に首元に熱い感触が蘇った。



 *



「じゃあ、帰るよ」


「はい」


「気を付けてな」


「お世話になりました」


 俺はシビックに乗り込み、エンジンをかける。


 長いようで短かった、濃密な二日間だった。


 色々あったが、十年ぶりに朝華に会えてよかった。


「じゃあな」


 窓を開けると、朝華が顔を突っ込んできた。甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。


「勇にぃ、楽しかったです」


「おう、夏休みになったら、また遊ぼうな」


「はい。私に会いに来てくれてありがとうございました。きっと私からじゃ、ずっと勇気が出なかったと思います」


「じゃあ今度は朝華から会いに来てくれよな」


「はい、必ず」


 名残惜しそうに朝華は離れていく。


 あの寂しそうな顔に、幼い頃の朝華の面影が浮かび上がった。


 さよならをする時の、寂しそうな顔が……


 どうせまた明日会えるのに、朝華は別れ際にいつも寂しそうにしていたっけ。


「それじゃ、またな」


 車を走らせ、俺は源道寺家の別荘を後にした。


「あっ」


 東名に入ってから、俺は朝華に借りた着替えのままであることに気づいた。


 自分の着ていた服を源道寺家の別荘に忘れてしまった。


「……まあ、いっか」


 今度会った時に返せばいいだろう。


 夜の高速を駆け抜ける。


 朝華の甘い残り香が車内に満ちていた。







































 *



 勇にぃは服を着替えないまま帰ってしまった。


 せっかく洗濯したのに。


 シャツもズボンも、そして下着も……


「……はぁ」


 勇にぃの匂いが私の鼻腔を満たす。


「好き」


 とても、幸せ。




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