第52話 夜を迎えに
1
まもなくして、玄関扉がゆっくり開いた。
現れたのは、妙齢の美しい女性――春山未来だ。
「あらー、勇くん」
「ご無沙汰してます」
「久しぶりねぇ。やだ全然変わってないじゃない」
「未来さんこそ。昔のお綺麗な姿のままですよ」
「褒めても何も出ないわよ」
嘘ではない。
記憶の中の未来とほとんど変わりない姿に、俺は度肝を抜かれた。
これが美魔女というやつか。
加齢による変化はあまり感じられない。しわやシミはあまりなく、若干肉付きがよくなった程度である。
長い茶髪を結って肩に垂らし、白いTシャツに七分丈のぴっちりしたデニムといった装いだ。
「どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
リビングに通され、ソファに座るよう促される。
「はい、どうぞ」
未来が二人分のアイスティーを運んでくる。
「あ、お気遣いなく」
「知らない関係じゃなんだから、堅苦しいのはやめてよ」
「それもそうですね」
「春頃に帰ってきたんだっけ?」
「ええ、三月末に」
「さやかさんから聞いたけど、あっちでの生活は大変だったんだって?」
「ええまあ。帰省する余裕もないほどには」
「もっと早く帰ってくればよかったのに」
「もうちょっと頑張ろう、もうちょっと頑張ろうが積み重なって、いつの間にか十年経ってしまいまして、ははは」
話題が俺の東京での生活に移ったので、ブラック企業での話を冗談交じりにしてみたが、苦笑いばかりが返ってきた。それ以外に東京での思い出はほぼなかったから仕方あるまい。
「十年ぶりかぁ。あっという間ね」
ストローで氷をからからと回し、未来はぽつりと言う。
「この十年、未夜はずっと会いたがってたよ」
「未夜はまだ学校ですか?」
「いつもだいたい七時くらいには帰ってくるけど。たまに九時近くまで帰ってこない時もあるかなぁ」
あのクソガキ、やっぱり遊び歩いてるのか……
「おかわりいるでしょ」
「すいません」
空のグラスを手に未来が立ち上がる。
その時だった。
「ただいまー」
玄関の方から声が聞こえた。未夜かな、と思ったが子供の声だった。
ん、子供?
ややあって、一人の少女がリビングに入ってくる。
長い茶髪をローツインテールにまとめ、アホ毛がひょこっと立っている。少しつり上がった大きな猫のような目は実に生意気そうで、一文字に結んだ口からは気の強さが窺える。
黒いTシャツにデニムのミニスカート。赤いランドセルにはいくつものストラップがぶら下がっている。
だ、誰だ?
一瞬未夜かと思ったが年齢が合わない。
「未空、おかえりー」
未来が戻ってくる。
「未空?」
「そっか、勇くんは知らなかったね。次女の未空よ」
なんだと。
「げっ」
未空は俺を見るなり、睨むように目を細める。
まずい、不審者だと思われただろうか。自宅に帰ったら知らないおっさんがくつろいでいたのだから、そう思われても仕方ないが。
「なにママ。不倫?」
「違うから。昔お隣さんだった、ほら有月さんの――」
俺は立ち上がって自己紹介をする。
「こんにちは、有月勇です」
年齢は十歳くらいだろうか。
未夜が順当に成長すれば数年でこうなりそうなほどよく似ている。
「ほら、未空も挨拶なさい」
ランドセルをソファーに放り投げ、未空は俺を見上げる。自信に満ち溢れ、どこか人を舐めたようなふてぶてしさを感じる視線。まるで子供の頃の未夜のようだ。
思わず懐かしい気分になる俺だった。
「こんちは」
じっと俺を見つめ返す反抗的な瞳。
警戒されてしまっただろうか。
未空はぷいっと未来の方を向き、
「ママ―、おやつ」
「先に手を洗いなさい」
「はーい」
未空は手洗い場へと小走りで向かった。
2
あー、びっくりした。
なんであのおっさんがうちにいるのよ。
手を洗ってリビングに戻る。
おっさんの向かいに座ると、おっさんは冴えない笑顔を向けてきた。
「未夜に似てるなぁ。何年生?」
「三年生だけど」
「そ、そう」
「おっさんはいくつなの?」
「おっ、おっさ……」
「こら未空、勇さん、でしょ。ご、ごめんね、勇くん」
「いえ、いいんですよ。本当に昔の未夜にそっくりですね」
おねぇや眞昼ちゃんや朝華ちゃんが子供の頃よく遊んでもらったらしいけど、私が生まれる前のことだ。
悪い人じゃなさそうだけど、なんかこう、ぼんやりしてるというか、覇気がないというか。
眞昼ちゃんの話だと頼れる兄貴って感じだったけど、どうもそんな風には見えないなぁ。
その時インターホンが鳴った。
「誰かしら……あ、そうだ。夏祭りの打ち合わせがあるんだった」
ママはバタバタと玄関に向かう。
「一時間くらいで戻ってくるから、勇くん、ゆっくりくつろいでて」
「はい」
もうすぐ四時だ。おねぇもそろそろ帰ってくるかもしれない。
……これはまずいんじゃない?
たしか眞昼ちゃんの話だと、おねぇはこのおっさんに自分の正体を気づかせようとしてるんだよね。あくまで、このおっさんの方から。
ここは私が一肌脱いであげるとするか。
たしか一年の時のコスプレ大会の写真は……あとこの前の映画のやつも使えるかも。
*
未来が出ていくと、未空はスマホを取り出して、
「あー、おねぇ怒るだろうなー。うちのおねぇ怒ると怖いからなー」
急になんだ?
「そのクッション、おねぇがいつも使ってるやつなんだよなぁー。おねぇ自分の物を使われるとすごい怒るからなー」
未空の視線は俺の尻の下のクッションに向かっている。これは未夜が普段使っているのか。
「はは、悪いことしたね」
クッションを脇にどける。
「おねぇってキレるとめちゃくちゃ怖いんだよねぇ。あ、これうちのおねぇの写真ね」
未空はスマホの画面をこちらに向ける。そこに映し出された写真に俺は度肝を抜かれた。
派手な金髪に目の周りを黒く縁取るアイシャドウ。カールがえぐいほど効いたつけまつげに赤いカラコン。リップは血のような赤に染まり、耳には大量のピアスが……
「え?」
舌ベロを大きく出し、中指を立てるファッ〇サイン。
厚化粧であの頃の未夜の面影などどこにもない。
「でー、こっちが最近のおねぇ」
未空は別の写真を見せてくる。
場所はどこかのホテルだろうか。
肩の出た露出の多い服装。髪は茶髪に戻っているが、部分的に染めたのだろうか、左側がメッシュのようになっている。目元のメイクは相変わらず濃く、耳のピアスはさらに増えている。黒いマスクを顎にずらし、舌なめずりをしている。
そしてお約束のファッ〇サイン。
「う、嘘だろ」
ギャルかヤンキーになっているだろうと想像はしていたが、まさかここまでとは。
自分でそうだろうと思い込んでいたくせに、いざその事実を突きつけられると、それを簡単に受け止めきれない自分がいた。
心臓につららを突き立てられたような冷たいショックが、体を貫く。
なんだか未夜が遠くに行ってしまったような気がする。いや、気がするじゃない。もう、俺の知っている未夜じゃないのか……
あの頃の思い出が浮かんでは消える。
勇にぃ、勇にぃ、と俺の後ろをついて回った未夜。泣き虫で強がりで、思い付きで行動するあのクソガキは不良ギャルJKに成長していた……
「おねぇが帰ってくるまでにさっさと帰った方がいいんじゃない?」
「あ、ああ。そう、だね」
別に帰る必要などなかったのだが、なぜか俺は立ち上がる。
いや、自分でも分かっているんだろ?
今の未夜と会うのが、怖くなったんだ。
3
ああ、すっかり遅くなっちゃった。
締め切りは来週だから焦ってやる必要もなかったんだけど。
星奈のチェックは厳しいからなー。
〈ムーンナイトテラス〉に寄ってこうかな。今日はテストと短編の執筆ですっかり疲れてしまった。
勇にぃの顔でも見て癒されてやろう。
あ、でも確か今日は勇にぃお休みって言ってたな。
お店の方にはいないかも。
街をぶらぶら歩いていると、偶然にもその勇にぃを見つけた。
なんという僥倖。
なんだかフラフラしているような気がするけど大丈夫かな?
遠目に見てもなんだか元気がないように見える。
私はパタパタと駆け寄って声をかけた。
「おーい、勇さん」
「ああ、君か」
勇にぃは暗い顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「いや、まあ、ちょっとね」
声も少し震えている。何か嫌なことでもあったのだろうか。
「悩み事があるなら聞きますよ? どこかで座ってお話ししましょう」
4
公園のベンチに並んで腰かける。
すでに日も落ちかけ、夜のカーテンが空を覆い始めていた。
「それで、どうしたんですか?」
「……」
勇にぃは口を結んだまま微動だにしない。
相当思い詰めている様子で、勇にぃが口を開くまで数分がかかった。
「隣に住んでたクソガキの話を前にしたよね?」
「え、ええ」
クソガキは余計だというのに。
「実はさ、その子の家に行ってきたんだ」
「え!?」
今なんて言ったの?
家?
それって私の家ってこと?
もしかして、もうバレちゃった?
「十年ぶりに妹分に会いに行こうと思ってさ」
「はぁ」
お母さんや未空が私の写真を見せれば、全てが終わる。
いやでも、勇にぃの様子や私に対する接し方を見る限りだと、その心配はなさそうだけど。
「それで、その子の妹がいたから写真を見せてもらったんだよね」
え?
見たの?
もしかして全部分かった上でとぼけてるの?
とめどなく押し寄せてくる疑問をこらえながら、私は次の言葉を待つ。
「そしたらさ、そいつはとんでもないギャルになっちまってたんだよ」
「ぎゃ、ギャル、ですか?」
私がギャルになったって、どういうことだ?
「もうぎらぎらの金髪でピアスも開けてたり、メッシュを入れてきつい化粧をしてたり」
話の内容が理解できない。
生まれて十七年(もうすぐ十八年)経つが、ギャルという生物は私の理解の外側の存在だ。そんな私がギャルになるわけが……
あ、なるほど。
私は理解する。
きっと未空がいたずらで私のギャル姿の写真を見せたのだろう。
一年の時の文化祭のコスプレ大会とミス研の映画の役作りで、私は計二回ギャルメイクをしたことがある。金髪のかつらをかぶったり、フェイクピアスをつけたり、前髪には取り外しの容易なエクステをつけたり。
そうかそうか、そういうことか……ってその写真が私だって気づかなかったんかい!
なんて鈍感なのさ。
「それでさ、俺は元々その子がそういう風に成長するんだろうなって、漠然と思ってたんだよ。あいつは本当にどうしようもないクソガキで、後先考えずに行動して、俺に迷惑ばっかりかけて……でも――」
「でも?」
「いざ本当にそういう風になっちまったその子を見たら、なんか、すげぇ悲しくなったんだ。俺の手の届かない世界にいっちまったんだなぁって。俺の知ってる未夜は、もういなくなっちまったんだなって」
その時、勇にぃの頬を一筋の涙が流れ落ちた。
*
勇にぃの涙を見て、胸の奥がじんと痛んだ。
……私は何をやってるんだろう。
最初はただのいたずらごころだった。
気づいてもらえなかったことにむっとして、ちょっと意地悪をしてやろうと思っただけだった。
なのに勇にぃは全然気づかなくて、こっちもだんだん意地になって、眞昼やおばさんたちも巻き込んで……
その結果がこれだ。
勇にぃにいらぬ心配をかけて、不安にさせて、自分が自分で嫌になる。
もう、いいかな。
ここまで気づかなかったんだから、きっとこれからも勇にぃが気づくことはないのだろう。
くだらない意地はさっさと捨てないと、勇にぃをどんどん苦しめてしまう。
「あ、あれ?」
気づくと、私の頬にも涙が伝っていた。
手のひらで涙を拭う。
おかしいな、全然止まらない。
言わなきゃ。
早く涙を拭いて、私が未夜ですって言わなきゃ。
「はは、もらい泣きですかね」
「未夜?」
「ふぇ?」
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