第49話 クソガキと台風 その2
1
「はい、いいんですよ。うちは大丈夫です。いえいえ。はい、分かりました」
俺のスマホで通話をする朝華。その相手は俺の母だ。
すでに母にこっぴどく叱られ、消沈した俺は玄関の端っこで縮こまる。状況が状況だけに、源道寺家に一晩泊まらせてもらうことには許しが出たが、軽率な行動だったと猛省する。
一歩間違えば、命の危険があったというのに。
未夜や眞昼の前で偉そうにしていたが、俺も同じ穴の狢だった。
なんて情けない。
「はい、勇にぃ。『代わって』って」
「お、おう」
「勇?」
ドスのきいた母の声が聞こえる。これはかなりキレている時の声だ。
「はい」
「源道寺さんには改めてあたしからお礼を言っておくから、今日のところは厄介になりなさい」
「はい」
「もう叱るべきことはさっき全部叱ったから、風邪引かないようにしなさい。あ、後はそう――」
母は一呼吸おいて、
「あんたの身に何かあったら、あたしやお父さんだけじゃなくて、未夜ちゃんたちだって悲しむんだからね」
「……はい」
通話を終える。
「はー……っくしょん」
溜め息がくしゃみに変化した。そういえば、びしょ濡れのままだった。
「さ、寒い」
室内は暖房が効いているが、服が濡れたままなので体が冷える。
「勇にぃ、風邪をひく前にお風呂に入りましょうか」
「ああ、悪いな。泊めてもらっちゃって」
「いいんです。お父さんもお母さんもいないので、私がいいって言ったらいいんです。あっ……おじいちゃんはいますけど、大丈夫です」
俺を泊めると朝華が言い出した時、当然ながらお手伝いさんたちは驚いて、心配そうな顔をしていたが、朝華がごねるとあっさり引き下がった。
「さ、行きましょう」
朝華はご機嫌な様子だ。
手を引かれ、階段を上がる。源道寺家の浴室は二階にあるようだ。
「服はそこの籠に入れてください。お客さん用の着替えがあるので、持ってきますね」
「おう、ありがとう」
脱衣所だけで俺の部屋の倍近くの広さがある。水を吸いまくったTシャツをなんとか脱ぐ。下着までびっしょりだ。
ややあって、朝華が戻ってきた。大人用の着替えと、自分の着替えを抱えて。
「ここに置いておきますね。あ、バスタオルはそこの棚です」
言って、朝華は自分の服に手をかける。白いお腹がぺろんと顔を出す。
「ちょっと待って朝華」
「はい?」
朝華はきょとんとする。
「お前は何をしようとしてるんだ?」
「何って、お風呂に入るんじゃないんですか?」
「そうか、そうだったな」
「はい」
「いや駄目だろ!」
「え?」
血の繋がった本物の兄妹ならともかく、小学校一年生の女児と一緒にお風呂なんて、いろんな意味でアウトだ!
赤ん坊の頃からの付き合いの未夜ですら、一緒に風呂に入ることはなかったというのに。
「勇にぃは私と一緒が嫌なんですか?」
「あ、いや、そういうことじゃなくて……」
朝華の声が震える。拒絶されたと思ったのか、今にも泣き出してしまいそうだ。
「あ、違うんだ。わ、分かった。じゃあ、こうしよう――」
2
「勇にぃ、ご飯の後はゲームしましょうね」
「おう」
「背中は私が洗ってあげますね」
泡立ったボディタオルを手に、朝華が後ろに回る。
「気持ちいいですか?」
「ああ、気持ちいいよ」
「えへへ」
朝華は生まれたまんまの姿――ではなく、水着を着ている。
これなら越えてはいけないラインギリギリだろう。アウト寄りのギリギリではあるが。
俺もきっちりタオルを二重に巻いて前を隠す。
「うんしょ、うんしょ」
水着姿の女子小学生に背中を流してもらう。
これはこれでやばい絵面のような気がするが、今さら気にしてももう遅い。
妹分が背中を流してくれるんだ、素直にその厚意をありがたいと思うことにしよう。
「じゃあ今度はこっち向いてください」
「前は自分で洗うからっ!」
体と髪を洗った後は、朝華と並んで湯船に浸かる。
「ふう」
冷え切った体が芯から温まる。
全身を伸ばしても余裕のある広さの檜風呂。
正面の壁はガラス張りになっていて、今日が台風でなければ、綺麗な夜景が拝めただろう。大量の雨粒が打ちつけ、風の音がごうごうと聞こえる。
「台風、嫌いです」
「怖いのか?」
「雷よりは怖くないですけど雷より嫌いです」
独特な感性だ。
顎の辺りまで体を沈め、朝華は寄り添ってくる。小さな手を湯船の中で握ると、朝華は腕に抱き着いてきた。
左腕全体にぷにぷにした感触が伝わる。
「台風、あとどれくらいで行きますか?」
「どうだろうなー、朝になればもういないだろうけど」
時折風に飛ばされた落ち葉や木の枝が窓ガラスにぶつかり、かさかさと音を立てる。
「そろそろ出るか」
「はい」
十五分ほど浸かり、すっかり体も温まった。
「あ、朝華、先に出て」
「え? はい」
3
豪勢な夕食をいただいた後、朝華の部屋に戻る。
お手伝いさんの一部は住み込みで働いているそうで、一階に部屋があるという。
テレビで台風情報を確認する。俺たちの街には大雨警報が出されていた。
静岡は今夜が山だが油断はできない。
「勇にぃ、ゲームしましょう」
あぐらをかいて座ると、その上にパジャマ姿の朝華がちょこんと乗ってきた。
艶のある髪からシャンプーのいい香りが立ち昇り、火照った体にはかすかに朱が差している。
「今日のうちに特訓して、未夜ちゃんと眞昼ちゃんをびっくりさせてやります」
「俺の特訓は厳しいぞ。ついてこれるか?」
「はい、師匠」
それから二人でテレビゲームに興じた。
午後九時前。朝華は目をしょぼしょぼを擦り始める。子供はそろそろ寝る時間だろう。
「眠いのか?」
「も、もうちょっと起きてます」
「じゃあいつ寝てもいいように歯磨きだけ先にしようぜ」
「はーい」
お客さん用の新品の歯ブラシをもらう。
二人並んで歯を磨き、部屋に戻ると、朝華はぽすっとベッドに飛び込む。いつ見ても大きなキングサイズのベッドだ。
「やっぱり眠いんだろ」
「うぅん」
朝華は眼鏡を外して枕元に置く。
俺も今日はなんだか疲れた。嵐の中を歩いた疲労が思ったより溜まっている。早めに休もう。
「そういや朝華、俺はどの部屋を借りればいいんだ?」
客人用の着替えがあるくらいだから、客間もあるのだろう。案内してもらわなければ。
「え? ここですよ」
言って朝華はぽんぽんとベッドを叩く。
「え?」
「早く来てください」
ん?
どこだって?
*
有月勇、彼女いない暦年齢の寂しい男。
当然、女の子と同じ部屋で一夜を過ごしたことなどない。彼にとって女子との一夜は幻想の世界の出来事であり、ゴジ〇や特撮ヒーローのようにフィクションの域を出ないのだ。
待て待て。
それはさすがにアウトだろ。
女子小学生が普段寝起きしているベッドに潜り込むなんざ、聞かれた相手によっては殺されても文句は言えない凶行だ。
いつも朝華の部屋で遊ぶ時だって、気を使ってベッドには乗らないようにしていたのに。
「勇にぃ、寝ないんですか?」
「寝るけど、いやだって」
「私と寝たくないんですか?」
言い方ァ!
「早く来てください」
朝華は掛け布団をめくり、自分だけ潜り込む。
ベッドの上に丸い膨らみが生まれる。
「俺が一緒に寝ても、いいのか?」
「はい」
俺は覚悟を決め、ベッドに乗る。
「入るぞ」
布団に潜り込むと、朝華が身を寄せてきた。俺の胸に顔をつけ、幼い呼吸を繰り返す。
小さな体。温かく、それでいて抱きしめたら折れてしまいそうなほど華奢な……
「えへへ、あったかいですねー」
「そうだな」
なんだかふわふわしたいい匂いがする。甘くて柔らかい香りだ。
「電気消してください。そこのスイッチです」
「おお」
枕元にあったリモコンで部屋の明かりを消す。
暗闇の中で鮮明に感じることができるのは、朝華の体温だけだ。
「……」
全身が熱い。風呂に浸かっていた時よりも格段に。
血の流れが加速し、心臓がバクバク言い始める。
「……」
なんだ、朝華がひっついてくるなんていつものことなのに、なんで今日はこんなにドキドキするんだ。
俺はロリコンじゃないはずだ。
もしかして、ベッドの中というシチュエーションのせいなのか?
だとしたら余計にやばいだろ。朝華を女として意識してるってことになるじゃねぇか。
やっぱり別の部屋で寝た方が――
その時、風が大きく唸り声を上げた。
「きゃっ」
その大きな音に驚いたのか、朝華はさらに強く身を寄せる。
「おお、そろそろ台風も本気を出してきたな」
がたがたと窓が揺れ、風と雨の音が絶えず響く。
「うぅ」
小さな体が小刻みに震える。
……もしかすると、今日みたいな日がこれまでにもあったのかもしれない。親のいない台風や雷、嵐の夜が。
小さな背中を撫でながら、俺は朝華を抱き寄せた。
「大丈夫だって。俺がいるんだぜ?」
「勇にぃ」
安心したように、朝華は目を閉じる。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
そういえば、と俺は思い出す。
この家って傾斜のある土地の中腹、いわば斜面に建ってるようなもんだよな。裏手は山だし、土砂崩れが起きたりしないだろうな……
「あわわわわ」
「勇にぃ、すごく震えてます」
「だ、大丈夫だ」
「さ、寒いですか?」
「いや違う」
「もしかして勇にぃも怖――」
「断じて違うぞ」
「?」
その夜は、二人でぴったりくっついて震えながら眠った。
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